[孤島]
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
BSシネマ 『ミツバチのささやき』
久々の更新です。3.11震災と原発事故など、今年はいろいろとありました。皆さん如何お過ごしですか? と聞いても もう誰も見てないか……。

さて、今日(11/23)BSシネマで「ミツバチのささやき」が放映されました。当Blogのプロフィールにもこの映画の写真が載せてあり、また英語名(The Spirit of the Beehive)をハンドルネームにしている手前、なにか感想を書こうと思いました。でも、時間がかかりそうなので、13~14年ほど前にホームページ(その頃 Blogというものはなかった)に書いたものを載せることにしました。(手抜きです。)

-------------------------------------------------------

「ミツバチのささやき 」(ヴィクトル・エリセ)---精霊への捧げもの (1)

ana.gif

 子供というのはまだ時間の住人ではないので、時計とはあまり縁がありません。時間の住人ではないということは、時間が過去から現在、未来へと流れることはないということです。 そしてものごとが言葉や時間という確かな枠組みなしに立ち現われてくるので、混沌としてはいるけれど、かえって世界と生き生きとしたかたちで接することができるのです。
 現実と夢や幻想の境界もあまりはっきりとしてはいません。向こうの世界との敷居があまりないのです。でも大人になるにしたがって、そうはいかなくなります。




 ヴィクトル・エリセ監督のスペイン映画「ミツバチのささやき」(The Spirit of the Beehive ミツバチの巣の精霊(2))にも、「不思議の国のアリス」と同じく二人の姉妹が登場します。そして同じく妹の方が主人公になっていますが、この映画では姉がストリー・テラーとして重要な役割を担っています。

 市民戦争が終わったころのスペインのカスティーリヤ地方のある村に、「フランケンシュタイン」の巡回映画がやって来くるところから話は始まります。 姉のイザベラといっしょにその映画を見たアナにとっては、劇中劇になるフランケンシュタインのストーリーが最初に語られる物語です。
 映画を見てアナはいくつかの疑問をいだきます。それは、女の子といっしょに水面に花を浮かべて遊んでいたはずのモンスターが、どうしてその子を殺したのかということと、そしてどうしてモンスターは村人に殺されたのかということです。
 その夜ベッドの中でアナは、イザベルにそのわけを尋ねます。 イザベルは、映画の中の出来事は作り話で、じっさいに女の子も怪物も精霊(spirit)なので死んではいないのだと答えます。そして精霊は村の近くにも住んでいて、夜になると姿を現わし、イザベル自身も見たことがあるという話をします。そして望めばいつでも精霊に会うことができると、アナにそのやり方と呪文の言葉を教えるのです。
 次の日の学校帰り、イザベルは精霊が住んでいるという村外れの廃屋にアナを案内します。 荒涼とした畑地跡に建っている誰も住まない風の家で、井戸が建物のそばにあります。

 アナは映画とイザベルのストーリーですっかり精霊の世界の虜(とりこ)になってしまいます。 そして精霊を求め、それからもひとりでその廃屋に出かけて行ったり、夜中にベッドを抜け出して森を歩いたりするのです。
 イザベルはアナとは違って、もう子供と大人の中間にいます。アナに精霊の話を聞かせても、イザベル自身は精霊を信じているわけではありません。 猫にいたずらをして指にひっかき傷をつけられ、そこから出た血を鏡に向かって口紅のように塗るシーンは象徴的です。すでに時間の世界に足を踏み入れていて、これから大人の女になって行くことを知っているのです。

 この映画ではアナやイザベルだけでなく、両親もそれぞれ違う時間の中に生きています。 母親のテレサは、内乱のさなかに別れてしまった男性へ想いを捨て切れず、手紙を書き続けています。でもその手紙の受取人は、生きているかどうかさえ分からないのです。 受け取られそして読まれることも確かではないまま、テレサは駅で手紙を郵便貨車に託します。その汽車を見送るシーンは、テレサのまなざしが線路のずっと彼方にあることを象徴しています。
 一方養蜂家である父親のフェルナンドの方は、ミツバチの神秘さに魅入られ、夜中じゅう起きて詩を書いています。日常の時間の感覚からは乖離したところで、詩の世界に生きているのです。

 精霊をさがし求めるアナの前に、とうとうそれらしい人物があらわれるときがやってきます。ある日廃屋に、足を怪我した若い男がいるのを見つけるのです。 汽車から飛び降りて、そこに隠れていた逃亡兵なのですが、アナは精霊だと思い込みます。そして食べ物など差し入れるのです。
 あるときは父親のコートまで持って行くのですが、受け取った逃亡者がポケットに手を入れると懐中時計が出てきます。フタを開けるとオルゴールが鳴り出す仕掛けになっていて、それは映画の冒頭部で父親が蜂の世話を終え帰るときにポケットから取り出して眺めていたものです。

 それから少しの間、話はアナの知らないところで展開します。
 そして家族4人でお茶を飲んでいるシーンで、父親は懐中時計を取り出して見せるのです。 精霊のところにあるはずの時計がいつのまにか父親の手許に戻っているで、アナは驚きます。そして廃屋に行ってみますが、もう精霊の姿は見あたりません。その代わり、そこで何が起きたのか想像できる痕跡が残っているだけです。

 跡を追ってやって来た父親の前からアナは逃げ出し、その日とうとう家には戻りませんでした。 家族も村の人たちもアナを探しますが、森をさ迷い歩くアナを見つけることはできません。
 次の日の朝、アナは寝ていたところを見つけ出されます。でも心に受けたショックは大きく、それ以来すっかり寝込んでしまいます。 その様子は直接的な映像というより、心配そうに医者に容体を説明するテレサの口から語られ、やはり心配そうにアナのベッドを覗きに行くイザベルの姿から窺うことになるのです。

 その出来事を通していちばん変わったのは、母親のテレサでした。アナが失踪した夜、テレサは想いを断ち切るように、出すはずだった手紙を焚き火の中に投じます。 そしてそれまでは夜中に夫のすることにはかまわずにいたのに、 詩作の途中でそのまま眠り込んでしまったフェルナンドの肩にカーディガンをかけ、眼鏡をはずしてやったりするのです。
 フェルナンドは相変わらず詩という時間の車輪の下にいます。そしてアナは夜中に起き出してはイザベルから教わった言葉をとなえ、精霊を呼び続けるのです。


 ところでよく言われているように、スペイン内戦の影というのが、陰鬱な冬空とともにこの映画を覆っています。たとえば殺された逃亡者の素性については映画の中で何も語られていませんが、たぶん共和国政府側の人間です。だからアナが失ってしまった精霊というのは、市民戦争を戦って敗れた共和国政府とイメージを重ね合わせることもできるのです。(3)

 緑も花の色彩もない荒涼とした大地と灰色の空の下で、ぜんたいに静かに進行するこの映画は、それに見合ったようにセリフもあまり多くありません。 しかしどのシーンもなんらかのかたちでほかのシーンと関連していたり、背景を暗示するものとなっています。
 口数の少ない大人たちとは違って、子供は元気です。 アナもショックで寝込むまでは元気でした。 精霊が住むと信じ足しげく通っていた廃屋の空からは風の鳴る音が聞こえ、そこでアナが吹く風を頬に浴びてひとり遊んでいたシーンが印象に残ります。
 アナのまなざしがもう精霊を求めるだけになったとしても、考えようによってはアナは父親と同じようなことをしていると言えるのです。父親のフェルナンドは気がついていないのかも知れませんが、昼の光の中では見えないものを見ようとするということでは、アナの世界とかれの世界は似ているのです。
 医者がテレサを慰めて言っていたように、アナはまだ小さい子供であり、時間がたてばショックも忘れるようになるのでしょう。そしてもっと時が過ぎれば、アナもやがてはイザベルになるのです。

 イザベルが少し前にはアナだったように、わたしたちもかってはアナだったのです。アナのように風を感じ、アナが蜜蜂に見入っていたように、花々やそこに群がる虫に魅入られしばし眺めていたことがあるのです。そしてまなざしは、何か不思議なもの、大人から見たら不可解としか思えないようなものを追い求めていたのです。
 でも蝶がかって自分が蛹(さなぎ)であったことを忘れているように、ふつうだれもあまりそのことをおぼえていません。ただ詩人やアーティストの魂(spirit)を持つ者だけが、まなざしの痕跡とその世界への禁断の回路を保存し続けているのです。


(1) これは時計デザインのシリーズ物として書かれたものです。そのせいもあって、ストーリーの説明も多くなってます。前回は「不思議の国のアリス」を取り上げました。
(2) 「ミツバチの文化史」(渡辺考 1994 筑摩書房)に、 「洋の東西を問わず、古代人たちは人智を越えた精霊がミツバチの姿を借りてわれわれの前に現れると考えた。」とある。
(3) この映画ができた当時は、まだそうしたことをはっきり言える状況になかった。


-------------------------------------------------------

エリセ監督は 水(生と死、精霊)と火を意識的に用いているのかな。

スポンサーサイト
新年おめでとうございます
2011

おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

ぜんぜん更新してなくて済みません。ツイターばかりやってました。

今年の目標というのを決めました。(今年の目標を決めるなんて、小学校以来だ。)

1.三年?越しのシナリオを早く書き上げる。
  それが済まないと何も動けない。あまり本も読めないし、映画・ビデオも遠い。引越しもできない。

ほかに目標がないので、以上。


去年読んだ本で印象的なもの。

『多次元に生きる』 オルダス・ハクスリー
『共感覚の世界観』 原田武


今年は、ベルクソン、ドゥルーズ、バフチン、初期仏教の経典などを系統的に読みたい。それから小説も。



最近、外では、ポメラで書いてます。
安いバージョン(DM5)のせいか、暗い所では画面が読みづらい。とくにカーソルがどこにあるのか、分からなくなることがしばしば。 でも、便利です。

pomera

『ザ・コーヴ(The Cove)』
東京や大阪で上映中止が相次いでいた「ザ・コーヴ(The Cove)」も、9日に東京都内のイベントホールで上映されたらしい。
でもこの映画、ごく短い間 Ustream にアップロードされていて、幸運にも見ることができた。(以下は、Twitterに書いたものをまとめたものです。)


ドキュメンタリーの文法として暴露戦術と啓蒙があると思う。「ザ・コーヴ」では、IWC(国際捕鯨委員会)での日本政府のあくどい手口や嘘、そしてなによりも隠蔽されたイルカ虐殺を暴露して、事実を知らなかった日本人や世界中の人々を啓蒙するというもの。
この映画は多くの日本人にとって、反感と賛同のアンビバレントな気分にさせられる。一部に反感だけの人もいるようだけど。

まず反感としては、何様モードで、野蛮な文明と知的な文明の対比に落し込められること。つまり、<野蛮(銛・恫喝)=イルカを殺す> vs <知的(ハイテク撮影機材・(偽)対話)=イルカを守る> という構図で、彼らの独善的な普遍的文明を強要されること。これはサウスパークも同様。それから警察での拷問も普通はありえない。

その他、イルカは日本の食文化だという主張もあるが、食文化なんて時代でコロコロ変わってきたし、固有の食文化なんてありえない。それもイルカを食べるのは一部のローカルな食文化であって、北海道でイルカ食う人間なんか見たことない。一地方の利権と、イルカ虐殺で不快感を覚えることや世界中で野蛮な日本人と言われることの損得はどうなっている?

隠し撮りをしたことに非難をする人がいるけど、じゃあ堂々と公開すればいいのに。それが出来ない時点で負けだと思う。

次に「ザ・コーヴ」に賛同する意見として、以前からイルカ虐殺は取り上げられてきたけど、それを広く知らしめ、カワイイくて知能が高い生物を殺していいのかという問題を提起したことがあげられる。

個人的にはイルカを殺すことに反対デス。犬や猫と同じ扱い。生命や生き物、特に知能の高い動物に対しては敬意を持つべき。

漁民の言う「アメリカでも牛を殺してるじゃないか?」というのは半分当たっているけど、「だから我々もイルカを殺す権利がある」というのは間違っている。映画を製作した人たちはきっと、牛は最初から肉用として誰かの所有として飼われており、誰のものでなく肉用として生まれたわけでもないイルカとは比較にならない、と言うだろうね。

両者(製作者と漁民)の考えを相対化するには、「一切衆生悉有仏性」(人間だけでなく山川草木や動物などすべてに仏性がある)を持ってくるのがいいのだけど、実際動物の肉を食っているし…。代わりにビオス(個々の生命)とゾーエ(ビオスが生まれる元もとになる生命一般)を使えばいいのかもしれない。
ちなみに、昔はクモや蛾など家で見つけたらすぐ殺していたけど、今は、刺す蚊を除いて、なるべく殺さないようにしている。本当は虫はきらいだけど。(こっちにはいないけど、ゴキブリは???分からない。)

それにしても、見てもいない映画にどうして反対するのかよく分からない。
上映中止を訴える団体は、まさに製作者がつくり上げた対立項の一方の側、つまり知的に劣る野蛮な側そのままのことをやっている。銛でなくて日の丸を持っているけど、何という滑稽さ。
でも実際にイルカは銛で刺され、悲鳴を上げ、血を流しているのだ。
妄想(日の丸イデオロギー)が感情(血も涙も)を抑圧する。


さて、「ザ・コーヴ」は札幌では7月下旬にキノで上映が予定されている。北大映研出身の劇場のオーナーはちゃんと上映すると思うけど、どうなるのかな。


『ザ・コーヴ』予告編
アナザー・ペアレント(TVドラマ「Mother」)
久しぶりに民放TVドラマ――水曜日放映の日本テレビ「Mother」を見た。たまたまTVのチャンネルを操作して、虐待とか児童福祉施設とか出てるので、途中からだけど、つい見てしまった。民放ドラマを見るのは「高校教師」や「のだめ~」以来かな。
テーマは虐待。舞台は、まだ雪の残っている室蘭。女性教師(奈緒=松雪泰子)と虐待される女子児童(怜南)を巡ってドラマが進展する。怜南は、同居している男からだけでなく、母親からも虐待されている。

う~ん、このドラマの突っ込みどころは多々ありそうだ。例えば、夜に教師が怜南の自宅の様子を見にいき、怜南が大型のごみ袋に入れられて放置されているのを発見し、それで怜南の誘拐を決心したとされる。
なんか NHKアニメ「精霊の守り人」(原作:上橋菜穂子)の女剣士バルサと皇子チャグムの関係みたいだ。バルサが、刺客からチャグムを守るというもの。
でもゴミ袋に入れて外に放置って、そりゃあ誘拐するまでもなく、警察に通報したら親たちは逮捕され、子どもは即座に児童福祉施設行きでしょうに。それで万事解決するのに。
小学校教師の奈緒(松雪泰子)も、全然子供向きじゃない暗い表情と低い声をしている。いろいろと事情があるのかもしれないけど、すごく違和感がある。こういう教師がいたらイヤだな、子どもにとっては。
怜南という子どもは可愛い。だけど、大人の描いた子どもにしかなってない。それもつまらないところ。

ところで、親にとって子との血のつながりは、他に代えられない大事な要素になっている。でも子どもにとっては、優しい親と快適な家庭さえあれば、それだけでOKでしょう。だからこのドラマで小学生の子が、何のためらいもなく教師についていくというのはわかる。

日本では血縁至上主義なところがあって、それが虐待を防げきれていない状況を生んでいる。
今から二十年以上も前、北海道の地方都市で、同居してた男から虐待されて死んだ男の子がいた。事件のあと、新聞に近所の商店の主人の話が載っていて、その子が店に来たとき、「おじさん、ぼくをこの家の子にして!」と頼んだそうだ。その記事を読んで、とてもショックを受けた。

アナザー・ペアレントとか擬似親子というのはあるのだろうか。虐待やネグレクトされたケースだけでなく、あまり可愛がってもらえなかったとか、相性が合わないとか、そういう場合のときに。
過去にそれに相応する事例がある。(どこの とは言わないけどw)ある家族があった。両親、姑、一人息子と二人の娘たちで構成されている。嫁姑のいさかいは激しく、親戚も巻き込んで泥沼状態が続いていた。また夫はたまにDVもやっていた。ストレスになった母親は、ときに子どもに八つ当たりした。母親はおもに勉強の出来た息子を、娘たち以上に可愛がっていた。それらのことを二人の娘たちは当然気づいていた。長女は学生のときバイトした小さな蕎麦屋の夫妻と懇意になり、夫妻から可愛がられ、長女も親のように慕っていた。長女の母親は嫉妬したのか、そのことを苦々しく思ったらしいけど、長女にとって蕎麦夫妻という別の家族をもてたのは救いだった。
一方、次女のほうはアナザー・ペアレントをもてなかった。そのせいかどうか知らないけど、今でも母親と会うと、あまり幸福じゃなかった当時のことを思い出すので、あまり会わないようにしているらしい。
ちなみに、二人の娘たちは既に家族をもっているが、両親の期待を担っていた一人息子は、今ではどうしようもないシロモノになっている。

ドラマ「Mother」は、本当の親子になるというものだった。そういうのでなく、やはり擬似親子やアナザー・ペアレントの必要性はあるのではないだろうか。今までは、おばあちゃんやおじいちゃんが代わりをしたり、共同体のメンバーが役割を担っていた。そういう代わりになる人が少なくなっているとき、血のつながってない擬似親子は、軽いものから重いものまでいろんなフェーズで、あっていいと思う。
現実に擬似親子というのは難しいかもしれないけど、ネット上では、アクセスが容易なこともあって、出来やすい。
ただアナザー・ペアレントが(仏教書で禁止している)愛着して執着したり、過剰に期待したりすると、結局は不幸なことになるようだ。それと大事なのは、アナザー・チャイルドに対して 97~100%くらい肯定・承認でないとならない ということで、あとで失敗したと後悔することのないようにと、反省も込めて思う。(お金を払うサービスは通常100%の対価が得られるけど、この場合は道徳や犯罪に関わったり危険な目に会う可能性もあるので、97~100%と幅を取ってます。)
この辺の匙加減が難しく、特に男性の場合、アナザー・ペアレントになるのは難しいかもしれない。圧倒的に必要なのは、父性でなくて母性だから。

      *

Amazonからポメラ(pomera DM5)が届いた。
PCはインターネットがあるからついネットで遊んでしまうけど、ポメラはワープロ機能しかないので、書き物に集中できる。そして、家にいるとあまり緊張感がなく、ついボーとしたり妄想にふけったりと決していい環境ではないので、(机のある)公共施設などに行って書き物しようと思ってます。

KINGJIM デジタルメモ「ポメラ」 DM5シル スパークリングシルバーKINGJIM デジタルメモ「ポメラ」 DM5シル スパークリングシルバー
(2010/03/09)
キングジム

商品詳細を見る
『Dr.パルナサスの鏡』 テリー・ギリアム
今度のギリアム・ワールドはパラレルワールド。馬車に牽かれた移動見世物舞台と鏡がパラレルワールドの出入り口になる。Dr.パルナサスの脳内世界=パラレルワールドで、そこで欲望の充足ができるという設定。でも欲望を追い求めて選択を間違えると危険な目に。

この映画に登場する悪魔は、悪魔というよりトリックスターだ。人を騙しながらストーリーをかき回す。登場人物すべてもアナーキーな振る舞いをする。落ちぶれた博士、道化、悪魔の手に落ちる少女、そして「吊された男」 。
この世で起きている事は、偶然なのだろうか、それとも必然なのだろうか。人は運命を選択しているのだろうか、それとも実際にはある(悪魔、神、運命などの)筋書きに乗っているにすぎないのか。タロットの「吊された男」は何か運命を暗示してる? 悪魔よりももっと酷い者がいる? けっきょく悪魔は16歳になるDr.パルナサスの娘を……、いやネタばれになるからこのへんで。

トニーを演じるヒース・レジャーが急逝でジョニー・デップなど3人が代役したそうだけど、そのことを知らなくて、何で顔が変わっているのかずっと疑問に思っていた。
テリー・ギリアムは『ドン・キホーテ』の主役が腰痛(だったかな?)で出られなくなって映画製作が中止になるとか、ついてない。この映画は何とか完成することができたようだけど。

原題 "The Imaginarium of Doctor Parnassus" の imaginarium(イマジナリウム)というのは辞書に載ってなかった。-arium(-アリウム)というのは「~に関する場所」(例えば水族館=アクアリウム)なので、imagin- の想像と合わさって「想像された場所」という意味かな。
同じく悪魔が登場するヴィム・ヴェンダース『時の翼にのって』ほどは深みがないけど、イマジナリウムで楽しませてもらった。
『タイドランド』の時もそうだけど、テリー・ギリアムの撮る少女はすごく魅力的だ。


Dr
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。