[孤島]
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右脳は無窮の夢を見るか?
奇跡の脳奇跡の脳
(2009/02)
ジル・ボルト テイラー

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『奇跡の脳』

37歳の脳科学者ジル・テイラーは、ある朝、脳失血(脳卒中)に襲われる。危機はなんとか乗り越えることはできたが、言語能力、認知能力、計算能力などがやられてしまう。
そのときの状況やその後のリハビリ、そして8年間に考えたことが、彼女の著作である『奇跡の脳』(My Stroke of Insight)に書かれています。
その中からいくつか抜粋します。

左脳の言語中枢が徐々に静かになるにつれて、わたしは人生の思い出から切り離され、神の恵みのような感覚に浸り、心がなごんでいきました。高度な認知能力と過去の人生から切り離されたことによって、意識は悟りの感覚、あるいは宇宙と融合して「ひとつになる」ところまで高まっていきました。
どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわかない。なんとも奇妙な感覚。からだが、個体でなくて流体であるかのような感覚。まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない。

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この体験から、深い心の平和というものは、いつでも、誰でもつかむことができるという知恵をわたしは授かりました。涅槃(ニルヴァーナ)の体験は右脳の意識の中に存在し、どんな瞬間でも、脳のその部分の回路に「つなぐ」ことができるはずなのです。
このことに気づいてから、わたしの回復により、他の人々の人生も大きく変わるにちがいないと考え、ワクワクしました。他の人々というのは、脳障害からの回復途中の人々だけでなく、脳を持っている人なら誰でも! という意味です。

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脳卒中を体験する前のわたしは、左脳の細胞が右脳の細胞を支配していました。左脳が司る判断や分析といった特性が、わたしの人格を支配していたのです。脳内出血によって、自己を決めていた左脳の言語中枢の細胞が失われたとき、左脳は右脳の細胞を制御できなくなりました。その結果、頭蓋の中に共存している二つの半球の独特な「キャラクター」のあいだに、はっきり線引きできるようになったのです。

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脳卒中によってひらめいたこと。
それは、右脳の中核には、心の奥深くにある、静かで豊かな感覚と直接結びつく性質が存在しているんだ、という思い、右脳は世界に対して、平和、愛、歓び、そして同情をけなげに表現し続けているのです。

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右脳と左脳はそれぞれユニークな特徴を持っており、ちがったやり方で情報を処理するわけですから、それが別々の価値体系となってあらわれ、結果的に非常に異なる人格が生じるのは、あたりまえかもしれません。左右の脳が持つ両方の性格を育て、脳の両側の機能と個性をうまく利用し、人生の中で両方がお互いに支え合い、影響し合い、調整し合うようにできる人もいます。
でも、ほとんどの人は、どちらか一方に考え方が偏り、常に分析し、批判的になり、柔軟さに欠けるパターン(極端な左脳状態)を示すか、あるいは、周囲とほとんど現実を分かち合うことなく、ほとんどの時間を「うわのそら」(極端な右脳状態)で過ごしています。
二つの性格のあいだの健全なバランスを生み出すことによって、初めて、変化に対して柔軟に対応できる(右脳)認知力を持ちながら、同時に道を踏み外さず具体的に行動できる(左脳)ようになります。与えられた認知能力を100パーセント大切にし、うまく使うことにより、まさに「生命の傑作」とも言えるわたしたちに見合った人生への道が開けます。決意しさえすれば、慈愛に満ちた世界をつくることが可能なのです。

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左脳は細部で頭が一杯で、分刻みのスケジュールで人生を突っ走ります。左脳はクソ真面目なのです。歯ぎしりしながら、過去に学んだことに基づいて決断を下します。一線を越えることなく、あらゆることを「正しい・間違っている」、あるいは「良い・悪い」で判断します。
右脳はとにかく、現在の瞬間の豊かさしか気にしません。それは人生と、自分にかかわるすべての人たち、そしてあらゆることへの感謝の気持ちでいっぱい。右脳は満ち足りて情け深く、慈しみ深く、いつまでも楽天的。右脳の人格にとっては、良い・悪い、正しい・間違いといった判断はありません。
これを右脳マインドと呼ぶことにしましょう。ですから右脳マインドでは、あらゆることが相対的なつながりの中にあるのです。ありのままに物事を受け取り、今そこにあるものを事実として認めます。


よく左脳は言語・概念・論理的で右脳はイメージ・図形・絵画的であるといわれている。でも左右の脳の特徴・性格をここまではっきりと言った人はいるのだろうか。


YouTube ジル・テイラー博士の講演(日本語訳)
があった。 ラッキー!

脳卒中の体験談 1/2
http://www.youtube.com/watch?v=Jza9z_n7Ju0


脳卒中の体験談 2/2
http://www.youtube.com/watch?v=NRMx87tfxkE




身体・精神・心・魂・スピリット

さてここで、人間が身体(物質)と精神からなっているというデカルト的な二元論を離れて、いったい人間の存在は何によってつくられているのかということを考えることにする。
いろいろな考え方が出されているけど、私的には、中川吉晴 『ホリスティック臨床教育学』、『気づきのホリスティック・アプローチ』(1)に載っていた、次の人間モデルがもっともふさわしいのではないかと思う。つまり、
身体(body)・精神(mind)・心(heart)・魂(soul)・スピリット(spirit)
の5つの要素。
個人の人格は、身体による行動と、精神による思考と、心による感情という三つの働きから成り立っているとされる。また魂とスピリットは、霊性の次元を指している。

この精神(思考)と心(感情)というのは、まさにジル・テイラーの言っている左脳マインドと右脳マインドに対応しているのではないだろうか。つまり精神(思考)が左脳で、心(感情)が右脳ということ。(そしておもに心=右脳が、超人格的な魂とつながっている。)

「もちろんこれら三者(身体・精神・心)の働きは分離されているのではなく、有機的に統合されている。」とされる。でもこの有機的なつながりがばらばらに分離し、お互いが対立すると、問題が発生する。
子どもの教育に関した部分で、その問題について次のように書かれている。
子どもの教育とは、身体と心と精神が順次バランスよく発達していくことを助ける営みである。現代の教育システムは、これら三者の内面的成長のリズムに従うよりも、むしろ社会の要請に従っているので、必ずしもバランスのとられた発達を促すものではなく、実際にはさまざまな不調和をもたらしている。これはとくに、社会の価値観を内面化する精神(マインド)が身体や心(その機能としての行動や感情)を過剰に管理するということで起こりやすい。 (『ホリスティック臨床教育学』)

これもテイラーの言う、左脳(精神・思考)が右脳(心・感情)に対して支配的にコントロールしている、ということに符合する。
わたしたちは左脳のところで決断してしまい、なかなか最新のファイルを探すために右へ一歩(つまり、右脳の意識の中へ)進もうとはしないのです。というのも、いったんある決定をしてしまうと、いつまでもその決定に執着するから。支配権を確立した左脳にとって、自由奔放な右の伴侶と狭い頭蓋のスペースを分け合うなんて、そりゃもう、許せないことなんだと思います。 (『奇跡の脳』)

要するに、精神(思考)が身体や心を抑圧して、からだや心にいま何が起こっているのかがなかなか気づきにくくなってしまっている。
では気づくにはどうしたらいいのか。
言葉や理屈(左脳)に頼らずに、自分の内部の感覚に忠実になる。右脳が持っているはずの(潜在的な)機能をもっと活用する。魂の声を聞くこと。ここで登場するのが、たぶん魂や霊性だと思う。テイラーが、涅槃や宇宙とつながっているとしたものです。
また、気づきを実践するためには、ヨガ、瞑想など、いろんな方法やツールがあるようです。(下記の書籍など参考)

こうしたことを自分自身でやっているのかといわれたら、何も言えない・・・。


1. 中川吉晴 『ホリスティック臨床教育学』(せせらぎ出版2005);『気づきのホリスティック・アプローチ』(駿河台出版社 2007)
 ヒューストン・スミス、ケン・ウィルバー、シュタイナー、グルジェフ、ウスペンスキーなども参考しにて、5つの要素、身体(body)・精神(mind)・心(heart)・魂(soul)・スピリット(spirit)を採用したとのこと。
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内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 (講談社現代新書)
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の中で、宅間先生(三浦友和)がタヌキをおびき寄せる場面があったけど、前作を見ていない私にとって何のことかさっぱり分からなかった。ネットで調べたら、前作では酔っ払って空き地で寝ていた宅間先生がタヌキに化かされ、夢の中で空襲で亡くなった奥さんと娘さんに会うことができた、ということらしい。それで、夢よもう一度!と、焼き鳥でタヌキを呼び寄せようとしていたのだ。

この本は、1965年(昭和40年)あたりを境にして、日本の社会からキツネにだまされたという話が途絶え始めたのはどうしてか、という疑問から出発する。(もちろん「三丁目の夕日」みたいにタヌキにだまされたり、またムジナやイタチに化かされたりすることもあるけど、それらの代表としてキツネが選ばれたということ。)
聞き取りした結果では、高度成長期の人間の変化、科学の発達による人間の変化、コミュニケーション手段の変化、死生観の変化、自然観の変化、天然林から人工林への変化などがあげられているとされる。
キツネにだまされなくなったことについては、人間と自然環境や動物との関係が、それらの要因によって崩壊してしまった結果なのだという推理をする。でも本書は、単にキツネの消滅の因果関係を明らかにするだけではない。伝統社会が持っていた人間と自然や動物と結びつきの「作法」が壊れたということはどういうことなのか、生命観、歴史観、風土論、さらに記憶と時間の問題なども含めた、広い範囲まで考察がおよぶ。
本当なら、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」というのはサブタイトルにして、「生命と歴史哲学と風土論と時間論の入門」みたいなタイトルの方が合っているかもしれない。もちろんそんな最悪のキャッチーな書名だと、かえって売れないだろうけど。
この本は、学際という言葉を越えた、哲学や歴史や生命論や民俗学や風土論などの領域を軽快にクロスオーバーしていて、とても刺激になった。 「何とかの壁」だとか「ちょめちょめの品格」だといったどうでもいい本ばかりベストセラーになっているなかで、こういう本を本当に良書というのだろう。

さて、ほんらい日本人がもっていた自然観・生命観について、たとえば次のように述べている。
百姓の暮らしをすればするほど自然の偉大さがわかる。間引きの例えで述べたように、人間は自然そのもののあり方とは違ったことをする。それはときに自己への罪悪感をもたらし、ますます深い自然への尊敬を生みだす。石も土も岩も、木も草も虫も動物たちも、この自然のなかで「おのずから」のままに生きているということ、そのこと自体のなかに穢れなき清浄なものを感じとる。それを清浄なる霊性と表現してもいいし、清浄な仏性(もちろん仏性は清浄なものにきまっているのだが)と述べてもいい。(p.102)

日本の伝統社会では、生命観には独特なものがあるらしい。とくに「山川草木、悉有仏性」という、草や山や動物や石やにも仏性があるというもので、これが民衆の倫理のベースになってるという。
もちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界のなかで生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。(p.110)

村落共同体では、人間も含めた個々の生命体がひとつの有機体となって機能してると言えるのかもしれない。人間も動物も植物や森や自然も、何らかの結び合った関係がある。死者でさえ、バーチャルな生命体の神(ご先祖)として村を見守るという役割が与えられている。 また八月のお盆には、この世に還ってくる。生きているときも死者になっても、村八分にされない限りは、よりどころはいくつも用意されている。
でも今は、かってのような共同体を作ることはできないだろう。(擬似)共同体の役割を担ってきた企業も、終身雇用と年功序列制度の廃止によって、その機能がなくなりつつある。それに代わる何か、あるいは別の考え方をしないと、どうしても空虚感につきまとわれてしまう。(1)

オーソライズされた制度史や客観的な大文字の歴史、そしてヘーゲルやマルクスなどの進歩史観といった知性でとらえられた歴史に対して、著者は目に見えない身体や生命の記憶に注目する。でも知性とちがって、身体や生命は、言葉=知性では表現されないので、何かに仮託してでしか語ることができないとされる。それはたとえばベルクソンの「直観」であり、鈴木大拙の「霊性」である。 (「一般には『魂』とか『霊』という言葉に仮託されることもある。」p.154) そして「キツネ」も。

それから、目に見えない生命や身体の記憶をもった人間の全体的な存在と、知性でつかみとられた現象としての存在との解離が、今日の私たちの状況を作っているのではないかと述べている。
ヨーロッパ生まれの直線的で発達史的な歴史、つまり知性の歴史は、過去を現在・未来に繰り込むことによって(トリック的に)現在を肯定する。そうして人々は(先進国の社会では)物質的にも豊かになってきたと思っているけど、充足感が得られていないのではないかと疑問を持ち始めた。
ところが、にもかかわらず充足感に乏しい。一体何が乏しいのか。
身体の充足感、生命の充足感、現在の問題意識から切断されているがゆえに「みえなくなった知性」の充足感。
知性を介してしかとらえきれない世界に暮らしているがゆえに、ここからみえなくなった広大な世界のなかにいる自分が充足感のなさを訴える。それが今日の私たちの状況であろう。そして、だからこそ、この充足感のなさを「心の豊かさへ」などと再び知性の領域で語ってみても、何の解決にもならないだろう。(p.157)

結局みえない記憶や歴史は、非知性の領域でおいてしかつかむことができないと断言している。
知性ではとらえきれないものということでは、スピリチュアリティの分野でも同様なことを言ってる。(スピリチュアリティといっても、いろいろあるけど。) 知性(言葉)によって断片され分節されたものでなく、言葉になる以前のありままの状態の対象を境界なく一体化してとらえ、その全体性(ホリスティク)の生のあり方が重要なのだということ。
この本ではスピリチュアリティという言葉はたぶん登場していないけど、スピリチュアリティの本でもあると私的には思ってます。
現代の私たちは、知性よってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語がうまれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。(p.161)


著者は田舎に住んでいる在野の哲学者だという。この本を読む前は、単なる人の好い田舎の哲学者?と思っていたけど、それはまったく誤解でした。よくいる観念だけの哲学者、たとえば笑えない土屋賢二やブーたれ中島義道(2)とは全然違う。

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(1) 共同体では人が死ぬと、ご先祖様という神に格上げになり収まりが付くけど、すでに共同体を失った我々は、死んだらどこにいくのか。輪廻転生でまた生まれるか。いずれにしても「自我」を抱えたままでは、死んでも死にきれない。かって伝統的な共同体の人々がそうであったように、「おのずから」の境地。 (このことを「成仏」とよぶ人もいる。) 
(2) 池田清彦[生物学者]の中島義道『醜い日本の私』に対する批判が↓ここ。
「他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。」(欲望問題)

また、『うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い』のなかで、どうして街宣車のことを挙げないのかという批判もあった。


      *

キツネは童謡にも登場していた。
先月 NHK-FMの深夜番組で童謡をやっていて、その中で女の子とお爺さんの掛け合いの歌があり、おもしろいと思って聴いていたら、「キツネがでる」とか歌っている。それでネットで番組表を調べたら、「一茶と子供」という童謡だっということが分かった。
どういう歌詞か、ネットで調べたけど分からなかったので、CDをネットで買うことにした。
「復刻 川田正子/川田孝子」という SP盤から録音復刻盤したもので、その中にその童謡がありました。
「一茶と子供」は↓ここで視聴できます。(一茶というのは、あの小林一茶のことです。)
http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?pdid=20053467
一茶と子供  川田孝子 伊藤久男
加藤省吾作詞/八州秀章作曲

(子ども)
信州信濃の 雪とけて
お山はとろり 春がすみ
さくら花さく 日ぐれ頃
とぼとぼひとり おじいさん
もしもし どちらへ ゆきまする

(一茶)
はいはい わしかな わしならのう
旅から旅の うたよみじゃ
まつりばやしの あの村へ
これからぶらり ゆことてのう

(子ども)
いえいえ こわいで やめなされ

(一茶)
さてさて こわいと いうことを
すこしもわしは 知らなんだ
なんときつねが でなさると
なるほどそれは ぜひ見たい

(子ども)
そしたらお話 きかせてね

(子どもの合唱)
信州信濃は 夕ぐれて
一茶のおじさん どこへゆく
おぼろおぼろな 春の夜や
もみじいろなす 秋の夜に
詠んではつたえた うたの数

ほのぼのとした歌ですねえ。女の子が知らないお爺さんに声を掛けるというのは、今だったらあまり考えられないかもしれない。
「旅から旅の うたよみじゃ」……うらやましい。
この歌がいつ作られたのかは、結局不明。戦前・戦中か戦後まもなくの時期? いずれにしろ 1965年よりもずっと前のころ。

このCDには「叱られて」という歌もあって、その最後のフレーズは次のようなものです。
 夕べさみしい 村はずれ
 コンとキツネが なきゃせぬか

こうしてみると、子どもはけっこうキツネを恐れていたんじゃないかと思う。大人も恐れていたので子ども同様に恐れたのか、それとも大人が子どもを訓育するためにキツネを利用したのかどうか分かりませんけど。

でも、「烏のあかちゃん」の四番目の歌詞では、
 きつねの赤ちゃん なぜ鳴くの
 三日月 おばさんに
 木の葉でかんざし 買っとくれ
 小石で花ぐし 買っとくれと
 コンコン 鳴くのね

というのがあったので、子キツネはあまり悪さはしないのかも。
ところで、キツネはほんとうにコン(コン)と鳴くのでしょうか?
ちなみに、こっちの北キツネは、たぶんそういう鳴き声はしない。というか、なにも鳴かない。



日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)
(2007/11/16)
内山 節

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テーマ:読書 - ジャンル:小説・文学

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