[孤島]
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BSシネマ 『ミツバチのささやき』
久々の更新です。3.11震災と原発事故など、今年はいろいろとありました。皆さん如何お過ごしですか? と聞いても もう誰も見てないか……。

さて、今日(11/23)BSシネマで「ミツバチのささやき」が放映されました。当Blogのプロフィールにもこの映画の写真が載せてあり、また英語名(The Spirit of the Beehive)をハンドルネームにしている手前、なにか感想を書こうと思いました。でも、時間がかかりそうなので、13~14年ほど前にホームページ(その頃 Blogというものはなかった)に書いたものを載せることにしました。(手抜きです。)

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「ミツバチのささやき 」(ヴィクトル・エリセ)---精霊への捧げもの (1)

ana.gif

 子供というのはまだ時間の住人ではないので、時計とはあまり縁がありません。時間の住人ではないということは、時間が過去から現在、未来へと流れることはないということです。 そしてものごとが言葉や時間という確かな枠組みなしに立ち現われてくるので、混沌としてはいるけれど、かえって世界と生き生きとしたかたちで接することができるのです。
 現実と夢や幻想の境界もあまりはっきりとしてはいません。向こうの世界との敷居があまりないのです。でも大人になるにしたがって、そうはいかなくなります。




 ヴィクトル・エリセ監督のスペイン映画「ミツバチのささやき」(The Spirit of the Beehive ミツバチの巣の精霊(2))にも、「不思議の国のアリス」と同じく二人の姉妹が登場します。そして同じく妹の方が主人公になっていますが、この映画では姉がストリー・テラーとして重要な役割を担っています。

 市民戦争が終わったころのスペインのカスティーリヤ地方のある村に、「フランケンシュタイン」の巡回映画がやって来くるところから話は始まります。 姉のイザベラといっしょにその映画を見たアナにとっては、劇中劇になるフランケンシュタインのストーリーが最初に語られる物語です。
 映画を見てアナはいくつかの疑問をいだきます。それは、女の子といっしょに水面に花を浮かべて遊んでいたはずのモンスターが、どうしてその子を殺したのかということと、そしてどうしてモンスターは村人に殺されたのかということです。
 その夜ベッドの中でアナは、イザベルにそのわけを尋ねます。 イザベルは、映画の中の出来事は作り話で、じっさいに女の子も怪物も精霊(spirit)なので死んではいないのだと答えます。そして精霊は村の近くにも住んでいて、夜になると姿を現わし、イザベル自身も見たことがあるという話をします。そして望めばいつでも精霊に会うことができると、アナにそのやり方と呪文の言葉を教えるのです。
 次の日の学校帰り、イザベルは精霊が住んでいるという村外れの廃屋にアナを案内します。 荒涼とした畑地跡に建っている誰も住まない風の家で、井戸が建物のそばにあります。

 アナは映画とイザベルのストーリーですっかり精霊の世界の虜(とりこ)になってしまいます。 そして精霊を求め、それからもひとりでその廃屋に出かけて行ったり、夜中にベッドを抜け出して森を歩いたりするのです。
 イザベルはアナとは違って、もう子供と大人の中間にいます。アナに精霊の話を聞かせても、イザベル自身は精霊を信じているわけではありません。 猫にいたずらをして指にひっかき傷をつけられ、そこから出た血を鏡に向かって口紅のように塗るシーンは象徴的です。すでに時間の世界に足を踏み入れていて、これから大人の女になって行くことを知っているのです。

 この映画ではアナやイザベルだけでなく、両親もそれぞれ違う時間の中に生きています。 母親のテレサは、内乱のさなかに別れてしまった男性へ想いを捨て切れず、手紙を書き続けています。でもその手紙の受取人は、生きているかどうかさえ分からないのです。 受け取られそして読まれることも確かではないまま、テレサは駅で手紙を郵便貨車に託します。その汽車を見送るシーンは、テレサのまなざしが線路のずっと彼方にあることを象徴しています。
 一方養蜂家である父親のフェルナンドの方は、ミツバチの神秘さに魅入られ、夜中じゅう起きて詩を書いています。日常の時間の感覚からは乖離したところで、詩の世界に生きているのです。

 精霊をさがし求めるアナの前に、とうとうそれらしい人物があらわれるときがやってきます。ある日廃屋に、足を怪我した若い男がいるのを見つけるのです。 汽車から飛び降りて、そこに隠れていた逃亡兵なのですが、アナは精霊だと思い込みます。そして食べ物など差し入れるのです。
 あるときは父親のコートまで持って行くのですが、受け取った逃亡者がポケットに手を入れると懐中時計が出てきます。フタを開けるとオルゴールが鳴り出す仕掛けになっていて、それは映画の冒頭部で父親が蜂の世話を終え帰るときにポケットから取り出して眺めていたものです。

 それから少しの間、話はアナの知らないところで展開します。
 そして家族4人でお茶を飲んでいるシーンで、父親は懐中時計を取り出して見せるのです。 精霊のところにあるはずの時計がいつのまにか父親の手許に戻っているで、アナは驚きます。そして廃屋に行ってみますが、もう精霊の姿は見あたりません。その代わり、そこで何が起きたのか想像できる痕跡が残っているだけです。

 跡を追ってやって来た父親の前からアナは逃げ出し、その日とうとう家には戻りませんでした。 家族も村の人たちもアナを探しますが、森をさ迷い歩くアナを見つけることはできません。
 次の日の朝、アナは寝ていたところを見つけ出されます。でも心に受けたショックは大きく、それ以来すっかり寝込んでしまいます。 その様子は直接的な映像というより、心配そうに医者に容体を説明するテレサの口から語られ、やはり心配そうにアナのベッドを覗きに行くイザベルの姿から窺うことになるのです。

 その出来事を通していちばん変わったのは、母親のテレサでした。アナが失踪した夜、テレサは想いを断ち切るように、出すはずだった手紙を焚き火の中に投じます。 そしてそれまでは夜中に夫のすることにはかまわずにいたのに、 詩作の途中でそのまま眠り込んでしまったフェルナンドの肩にカーディガンをかけ、眼鏡をはずしてやったりするのです。
 フェルナンドは相変わらず詩という時間の車輪の下にいます。そしてアナは夜中に起き出してはイザベルから教わった言葉をとなえ、精霊を呼び続けるのです。


 ところでよく言われているように、スペイン内戦の影というのが、陰鬱な冬空とともにこの映画を覆っています。たとえば殺された逃亡者の素性については映画の中で何も語られていませんが、たぶん共和国政府側の人間です。だからアナが失ってしまった精霊というのは、市民戦争を戦って敗れた共和国政府とイメージを重ね合わせることもできるのです。(3)

 緑も花の色彩もない荒涼とした大地と灰色の空の下で、ぜんたいに静かに進行するこの映画は、それに見合ったようにセリフもあまり多くありません。 しかしどのシーンもなんらかのかたちでほかのシーンと関連していたり、背景を暗示するものとなっています。
 口数の少ない大人たちとは違って、子供は元気です。 アナもショックで寝込むまでは元気でした。 精霊が住むと信じ足しげく通っていた廃屋の空からは風の鳴る音が聞こえ、そこでアナが吹く風を頬に浴びてひとり遊んでいたシーンが印象に残ります。
 アナのまなざしがもう精霊を求めるだけになったとしても、考えようによってはアナは父親と同じようなことをしていると言えるのです。父親のフェルナンドは気がついていないのかも知れませんが、昼の光の中では見えないものを見ようとするということでは、アナの世界とかれの世界は似ているのです。
 医者がテレサを慰めて言っていたように、アナはまだ小さい子供であり、時間がたてばショックも忘れるようになるのでしょう。そしてもっと時が過ぎれば、アナもやがてはイザベルになるのです。

 イザベルが少し前にはアナだったように、わたしたちもかってはアナだったのです。アナのように風を感じ、アナが蜜蜂に見入っていたように、花々やそこに群がる虫に魅入られしばし眺めていたことがあるのです。そしてまなざしは、何か不思議なもの、大人から見たら不可解としか思えないようなものを追い求めていたのです。
 でも蝶がかって自分が蛹(さなぎ)であったことを忘れているように、ふつうだれもあまりそのことをおぼえていません。ただ詩人やアーティストの魂(spirit)を持つ者だけが、まなざしの痕跡とその世界への禁断の回路を保存し続けているのです。


(1) これは時計デザインのシリーズ物として書かれたものです。そのせいもあって、ストーリーの説明も多くなってます。前回は「不思議の国のアリス」を取り上げました。
(2) 「ミツバチの文化史」(渡辺考 1994 筑摩書房)に、 「洋の東西を問わず、古代人たちは人智を越えた精霊がミツバチの姿を借りてわれわれの前に現れると考えた。」とある。
(3) この映画ができた当時は、まだそうしたことをはっきり言える状況になかった。


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エリセ監督は 水(生と死、精霊)と火を意識的に用いているのかな。

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『ザ・コーヴ(The Cove)』
東京や大阪で上映中止が相次いでいた「ザ・コーヴ(The Cove)」も、9日に東京都内のイベントホールで上映されたらしい。
でもこの映画、ごく短い間 Ustream にアップロードされていて、幸運にも見ることができた。(以下は、Twitterに書いたものをまとめたものです。)


ドキュメンタリーの文法として暴露戦術と啓蒙があると思う。「ザ・コーヴ」では、IWC(国際捕鯨委員会)での日本政府のあくどい手口や嘘、そしてなによりも隠蔽されたイルカ虐殺を暴露して、事実を知らなかった日本人や世界中の人々を啓蒙するというもの。
この映画は多くの日本人にとって、反感と賛同のアンビバレントな気分にさせられる。一部に反感だけの人もいるようだけど。

まず反感としては、何様モードで、野蛮な文明と知的な文明の対比に落し込められること。つまり、<野蛮(銛・恫喝)=イルカを殺す> vs <知的(ハイテク撮影機材・(偽)対話)=イルカを守る> という構図で、彼らの独善的な普遍的文明を強要されること。これはサウスパークも同様。それから警察での拷問も普通はありえない。

その他、イルカは日本の食文化だという主張もあるが、食文化なんて時代でコロコロ変わってきたし、固有の食文化なんてありえない。それもイルカを食べるのは一部のローカルな食文化であって、北海道でイルカ食う人間なんか見たことない。一地方の利権と、イルカ虐殺で不快感を覚えることや世界中で野蛮な日本人と言われることの損得はどうなっている?

隠し撮りをしたことに非難をする人がいるけど、じゃあ堂々と公開すればいいのに。それが出来ない時点で負けだと思う。

次に「ザ・コーヴ」に賛同する意見として、以前からイルカ虐殺は取り上げられてきたけど、それを広く知らしめ、カワイイくて知能が高い生物を殺していいのかという問題を提起したことがあげられる。

個人的にはイルカを殺すことに反対デス。犬や猫と同じ扱い。生命や生き物、特に知能の高い動物に対しては敬意を持つべき。

漁民の言う「アメリカでも牛を殺してるじゃないか?」というのは半分当たっているけど、「だから我々もイルカを殺す権利がある」というのは間違っている。映画を製作した人たちはきっと、牛は最初から肉用として誰かの所有として飼われており、誰のものでなく肉用として生まれたわけでもないイルカとは比較にならない、と言うだろうね。

両者(製作者と漁民)の考えを相対化するには、「一切衆生悉有仏性」(人間だけでなく山川草木や動物などすべてに仏性がある)を持ってくるのがいいのだけど、実際動物の肉を食っているし…。代わりにビオス(個々の生命)とゾーエ(ビオスが生まれる元もとになる生命一般)を使えばいいのかもしれない。
ちなみに、昔はクモや蛾など家で見つけたらすぐ殺していたけど、今は、刺す蚊を除いて、なるべく殺さないようにしている。本当は虫はきらいだけど。(こっちにはいないけど、ゴキブリは???分からない。)

それにしても、見てもいない映画にどうして反対するのかよく分からない。
上映中止を訴える団体は、まさに製作者がつくり上げた対立項の一方の側、つまり知的に劣る野蛮な側そのままのことをやっている。銛でなくて日の丸を持っているけど、何という滑稽さ。
でも実際にイルカは銛で刺され、悲鳴を上げ、血を流しているのだ。
妄想(日の丸イデオロギー)が感情(血も涙も)を抑圧する。


さて、「ザ・コーヴ」は札幌では7月下旬にキノで上映が予定されている。北大映研出身の劇場のオーナーはちゃんと上映すると思うけど、どうなるのかな。


『ザ・コーヴ』予告編
『Dr.パルナサスの鏡』 テリー・ギリアム
今度のギリアム・ワールドはパラレルワールド。馬車に牽かれた移動見世物舞台と鏡がパラレルワールドの出入り口になる。Dr.パルナサスの脳内世界=パラレルワールドで、そこで欲望の充足ができるという設定。でも欲望を追い求めて選択を間違えると危険な目に。

この映画に登場する悪魔は、悪魔というよりトリックスターだ。人を騙しながらストーリーをかき回す。登場人物すべてもアナーキーな振る舞いをする。落ちぶれた博士、道化、悪魔の手に落ちる少女、そして「吊された男」 。
この世で起きている事は、偶然なのだろうか、それとも必然なのだろうか。人は運命を選択しているのだろうか、それとも実際にはある(悪魔、神、運命などの)筋書きに乗っているにすぎないのか。タロットの「吊された男」は何か運命を暗示してる? 悪魔よりももっと酷い者がいる? けっきょく悪魔は16歳になるDr.パルナサスの娘を……、いやネタばれになるからこのへんで。

トニーを演じるヒース・レジャーが急逝でジョニー・デップなど3人が代役したそうだけど、そのことを知らなくて、何で顔が変わっているのかずっと疑問に思っていた。
テリー・ギリアムは『ドン・キホーテ』の主役が腰痛(だったかな?)で出られなくなって映画製作が中止になるとか、ついてない。この映画は何とか完成することができたようだけど。

原題 "The Imaginarium of Doctor Parnassus" の imaginarium(イマジナリウム)というのは辞書に載ってなかった。-arium(-アリウム)というのは「~に関する場所」(例えば水族館=アクアリウム)なので、imagin- の想像と合わさって「想像された場所」という意味かな。
同じく悪魔が登場するヴィム・ヴェンダース『時の翼にのって』ほどは深みがないけど、イマジナリウムで楽しませてもらった。
『タイドランド』の時もそうだけど、テリー・ギリアムの撮る少女はすごく魅力的だ。


Dr
『アバター』 ジェームズ・キャメロン監督
この映画は、過去に撮られた映画の様々な要素をもっている。ストーリとしては、アメリカ映画でよくある「騎兵隊・海兵隊」物語。それにしても米国は本当に「騎兵隊・海兵隊」&ハルマゲドンが好きだ。『プラトーン』など戦争物のほとんどがこれに相当するが、他に『スターゲート』、『エイリアンII』『アレキサンダー』など多くの映画がある。(オリバー・ストーンはこの種の映画を撮るが好きだ。)
でも『アバター』では、海兵隊や指揮官の大佐が悪役となっていて、そこがこの映画のユニークなところだ。『ソルジャー・ブルー』(騎兵隊がインディアンを皆殺しにする)という、騎兵隊とインディアンの善悪の立場が逆転する映画が出てきて以降、あまり騎兵隊物は見られなくなった。この映画で、もう米国映画の「海兵隊」物語は終りになればいいと思うけど、なかなかそうはならないかもしれない。
しかし……、近代的な価値観をもった貪欲な企業と、それを武力で支援する海兵隊。そして自然的な生活を送り、人間よりも身体的にも精神的にも能力が高いナヴィ。それらを対比することによってこの映画は、反軍・反戦メッセージを伝えたかったのかもしれない。

それから、白人が未開の部族の王になるという、これも英米の映画によくある話も登場する。『地獄の黙示録』のカーツ大佐(マーロン・ブランド)は現地の部族の王として君臨していて、それをウィラード大尉が暗殺するというストーリーだった。
この映画では、将来的に王になるためのプロセスとして描かれる。つまり、巨大な鳥に乗って天孫降臨し、族長の娘と結ばれ、そしてナヴィとともに海兵隊と闘うことよって。
その他、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』的な様相もある。帝国軍が侵入して、それを反乱軍が防衛するというもの。二足歩行ロボットの代わりに、二足歩行モバイル・スーツも登場していた。

で、感想。これは壮大な3Dシルクドソレイユだ。族長の娘の、3Dによる肢体のエロさがたまらなかった。3Dは、機械物よりも植物、そして植物よりも動く人間の身体で生きてくると思った。3Dのエロ映画を観たい。

      *

北海道で『アバター』を3Dで上映する映画館は、札幌と旭川の2館だけなのだ。シネマフロンティア(札幌JRタワー・ステラプレイス)で観てきた。
札幌駅のステラプレイスはビックカメラに接続しているんだ。田舎者な私は、ステラプレイスと大丸が繋がっているのを知るまで、かなりの時間を要した。

テーマ:アバター - ジャンル:映画

『きみの友だち』 ほか2本
きみの友だち


■『きみの友だち』(監督:廣木隆一、脚本:斉藤ひろし、原作:重松清)

DVDで見た。
おじさんは少女が好き。私も同様。でも対象となるのは、プラトンのいうイデア(1) としての少女だ。 少女の肉体そのものにフェチるのは、変態で邪道だ。
イデアとしての少女、つまり「少女という存在そのものの本質的な客体性」(2) をこの上なく追求したのが澁澤龍彦だ。少女のもつ特徴として生命力があるが、彼はそれを超えて「生の記憶から出来るだけ遠ざかった」ところまで到達した。イデアの少女は本来観念的にしか語られないが、それを具現化したのが四谷シモンなどの関節人形で、モノとしての受動的な少女像に語らせることで、いま人気の興福寺国宝「阿修羅」像が放つオーラみたいものが現れ出る。

澁澤の少女が静的・標本的なものだとすると、宮崎駿の少女は動的で生命感に満ち溢れている。宮崎駿の場合も、やはりイデアとしての少女だ。
生命力から、表情や美しさやリズム感などが生れる。アニメーションはその語源から「生命のない動かないものに命を与えて動かす」と言われるが、生命とは表情のことでもある。表情は顔だけでなく、全身を使った動きも表情だ。だから宮崎駿アニメ制作のドキュメントをみても、いかに表情を描くかが重要なのかということが理解できる。

作家は(あるいは神は)、非情にも少女に試練を与える。困難に直面し、屈辱を受けることもあり、悪口、また汚名を着せられることもある。その過程で、喜怒哀楽の表情だけではなく、翳のある表情、物憂げな表情、苦悶の表情、孤独な表情など、少女はさまざまな相貌を見せる。そしてその試練を乗り越えることによって、少しずつ大人の女性になる。
イデアとしての少女は死なない。少なくとも少女からおばさんに生まれ変わる(?)ようなことはしない。

さて、この映画に登場する少女たちは、イデアとしては捉えていないようだ。
でも、おじさんたちがリアリズムで少女を描写できるのでしょうか?

(まだこの映画を観てない人は、ここから先は読まない方がいいかもしれません。)


主人公の恵美は不機嫌キャラだ。片足がびっこで松葉杖を使わないとうまく歩けないし、いじめられたこともて、そうなったのだろう。それと、足の骨折は間接的にユカにも関係しているのだからと、友だちの由香に対しても不機嫌。
(そういえば、『つぐみ』や『ジョゼと虎と魚たち』の主人公も不機嫌キャラだった。)

恵美の不機嫌さを、由香の温厚で明るい性格が中和する。恵美はプライドが高いけど、由香は低くて妥協的。お互いのキャラクターが対照的だ。
でも、小説の不機嫌さと映像の不機嫌さは、ちょっと違う。映像であまり不機嫌さを見せつけられると、気が滅入る。(実際は不機嫌でないときもあるのだろうけど、印象として不機嫌さが残ってしまう。)

由香のこだわりアイテム「もこもこ雲」は想い出が一杯詰まったものであり、想像力が生み出したイメージである。恵美も、後にハナもそれを共有する。でも、イマジネーションの雲をビジュアル化したら、本当につまらないものになる。それは、小説の雲と映像の雲の違いでもある。実際、撮られた写真の雲もそうだし、恵美が病床にいるユカに渡した「もこもこ雲」の絵も、まるで子どものお絵かきみたいもので、ちょっと無惨だ。

恵美の不機嫌とは対照的に、吉高由里子演ずるハナって華がある、と、しょうもないダジャレを言ってますが、ハナは中3というより大学生みたいだったし、実際20歳のせいか、存在感があった。どんな表情をしても良いので、もし物語が中3でなくて高3だったら、吉高由里子はヒロインになっていたかもしれない。

それから、男子生徒たちのエピソードは必要なかったのではないかと思う。何かNHKの「中学生日記」みたいだったし、それよりもハナや堀田や西村とのエピソードをもっと増やした方が良かったと思う。それに、小学校時代の意地悪キャラ万里ちゃんとかも登場させて、恵美はいかに屈辱の日を送っていたかを知らしめることも必要だったのではないか。

いくら映画の上(小説の上)での出来事だと言え、少女が死ぬのは観客(読者)にとっては衝撃的なことだ。もともと映画や小説はみな作為的に作られているのだろうけど、そういう設定にしたのを あざといと思うかどうかは、そこに必然性があるかどうかにかかっていると思われる。
さて、由香の死は、どういう影響を与え、人に何をもたらし、そして何を失ったのか。

この映画では、死や死に逝く者をどう考えるかについての考察も、もっとされていたらと思う。とは言っても、これはおもに少女(少年)を対象として作られたものなので、仕方がないか。
要するに『きみの友だち』は、「由香の想い出と『もこもこ雲』は懐かしいね」とか、「死んで天国に行って空で『もこもこ雲』になり、空を見上げるとそこに由香がいる」とか、「死んだ者を忘れないことが大切である」ということに集約されているように見える。とすると、薄幸な由香が死ぬ理由も分かるのだけど、なんだか、ちょっと腑に落ちない気がする。

小説では、最後の恵美の写真展は、同時に恵美とフリーライターの結婚パーティでもあった。そこに参加したのは恵美の祝福のためにやってきた人たちであり、また二人の両親やハナや堀田や西村や語り手のフリーライターなども含めた、死んだ由香の「想い出共同体」の人たちであった。(本当は、ひとりが死んでもうひとりが結婚するそのギャップはなに? とか思うけど。)
いっぽう映画では、結婚パーティなしの写真展だけのもので、由香の想い出は、そこに登場した恵美とフリーライターと由香の両親だけのものだった。そして恵美は空を見上げて終わり。やっぱりエンディングには、ハナや堀田や西村も登場した方が良かったのではないだろうか。

この映画を作るとき、どうして脚本家か監督を女性にしなかったのだろうと思う。


1.個別の事物の背後には、その本質であるイデア (Idea) が実在すると主張する哲学の存在論のひとつ。
イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の実であり、感覚的事物はその影であるとする。イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる。 (ウィキペディアより)
2.澁澤龍彦 『少女コレクション序説』




■『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(香港映画 1987年公開。監督:チン・シウタン)

BSで見た。『聊斎志異』の中のストーリーを元にして作られたとのこと。この映画を初めて見たときはすごく驚いたし、いま見ても優れていると思う。女優のジョイ・ウォンも色っぽかったし。

男女の恋や愛の障壁になるものはいろいろと挙げられるが、死こそその最たるもの。この世の男性とあの世で幽霊になった女性との恋は、はたして成就できるのか。

NHKのBSではチャイニーズ・ゴースト・ストーリー2と3もやっていたが、こちらは化け物退治のドタバタ活劇。3は途中で見るのをやめた。



■『埋もれ木』(2005年 監督:小栗康平)

『泥の河』など小栗康平の作品は優れているので、この映画は前から見たいと思っていたけど、田舎のビデオ屋にはなかった。やっとBSで見ることができた。でも、どう評価していいのか、困ってしまう。
長回しを多用する監督だけどそのせいがあったのか、それとも小栗康平らしい夜のシーンが多かったのか、それとも深夜番組のせいもあるのか、とにかくちょっと眠かった。テンポがいい『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』とは対極に位置する。

この映画は、お互い脈絡のない数多くのエピソードの切り貼り(コラージュ)によって成り立っているので、ストーリーを追い求めようしとしても頓挫するようだ。
映画の最後で、登場人物たちや動物やオブジェが、埋もれ木やカーニバルのところで集まる夜のシーンがある。まるでF・フェリーニの「8-1/2」みたいだけど、その大団円に来て初めて、各エピソードや場面が伏線として撮られたことが分かる。
でも、逆にわざわざそのシーンに至る過程として各場面が撮られたとしたら、その意図はあまり成功はしていないように見えた。例えば、風船で浮く張りぼての鯨は、少女の物語から始まったものであり、トラックの鯨の壁画であるという風に。でも、張りぼて鯨のシーンは、別にどうということはないものだったし、カーニバルで空に浮く気球の赤い馬のも、とくに美しいとは思えなかった。
それと、埋もれ木の間を子どもたちが駱駝と一緒に行進のシーンがあったけど、子どもたちが森林のなかで行方不明になったエピソードや、建具屋のおやじが小学校で木や森林について講義するシーンなども、伏線として働いているようだ。その建具屋のおやじは、子どもが死んだことがきっかけで廃業してタクシー運転手になり、そしてまた建具屋になって、死んだ子のいたクラスで森林エコな啓蒙活動をやるという、何とも予定調和をやっている。そして建具屋おやじの話が、木・森林つながりで最終章の埋もれ木のシーンに接続するという、その意図もけっこう作為的な感じがした。

T・アンゲロプロスの長回しのカメラワークは、強い想いが込められた光景を撮ったものだけど、この映画のように想いも脈絡もそれほど強くない長回し場面を見せられても、ただ途方に暮れる。
それと、この監督には、F・フェリーニのもつ(いい意味での)いかがわしさみたいものが不足している。

『埋もれ木』オフィシャルサイトの小栗康平監督のメッセージに、次のようなことが書かれていた。
画像は感覚に訴える。言葉と比べればもともと論理性を優先していない。その分だけ、見る人の印象といったところへまぎれて、なにがいいのか悪いのかを、私たちは確かめ合えないでいる。
画像の中心がTVに移り、映画の商業性ばかりが強調されていくと、映像はどうしても分かりやすいものへと流れがちになる。
幼児はまず絵本から表現に触れ、親しむ。やがてそこに言葉が入ってくる。言葉以前に私たちはイメージで世界を見ているといっても過言ではない。
だとすれば、いのちのその最も根本に関るイメージが、人為的に作られた画像というものにとって替わられることについて、私たちはもっと慎重でなければならない。
『埋もれ木』では、見えていることと、見ようとしていることが、ないまぜになっている。結果として、映画にある程度の抽象性が入ることを避けられなくなった。もしかしたらそれが観客にうとまれることがあるかもしれないと思う。でもそれでもなお、一人でも多くの人にこうした作品に触れてほしいと、願うのです。

前半のところは、もう既によく言われていることであり、それはそれで分かるのだけど、個々の文節のつながりがすごく恣意的だ。それと、後半の部分との因果関係も不明瞭。そして何より、そのメッセージで言われることを実際に映画で実現されているかどうかは疑問だし、「言葉以前のイメージ」が表現されるとは言えないと思う。ちょっと頭でっかちの映画に思えた。

ちなみに、小栗康平も少女が好きだ。でも少女たちの存在をイデアと考えるというよりも、イメージを運ぶメッセンジャー(語り部)の役割を与えている。だから少女に試練は与えないし、彼女ら自身も変わりはしない。
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