[孤島]
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超短編小説200文字
いま Twitter Novel (#twnovel) というのを始めたのだけど、140文字制限というのがあって、なかなか難しい。やっぱり200字くらいないと十分に書き込めない。
それで twitter140文字版と同じ素材を、200字原稿用紙に収まる短編として、ここに載せることにしました。

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 エリナー・リグビーは遥か遠く日本で生まれ変わった。今度も女の子で、エリ子と名づけられた。父親の仕事の関係でロンドンに住んだ幼年期、家族で旅行したリヴァプールで「懐かしい。どこかで見たことがある」とデジャブ体験をした。パン職人を目指していた21歳のとき、C型肝炎ウイルスの感染が判り、「このまま結婚できずに死んでゆくのか」と涙を流した。でもインターフェロンでやっと肝炎も完治し、今では衆議院議員になった。


 台湾の沖を南に航行中、数隻の船とすれ違おうとしていた。その中に、うちの海運会社の船がいるのを見つけた。煙突のマークで判別できる。半海里(900m)ほど近づいたとき、お互いに「ボ~~ゥ」と遠慮がちに汽笛の交換をした。手の空いている船員もデッキに出て僚船に手を振る。しばしの逢瀬の後、船影はみるみる遠ざかっていた。船長は「もう会えないかもしれない」と言って、昭和19年○月○日の航海日誌に船名や位置を記入する。

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解題、といっては大げさだけど、
エリナー・リグビーは教会で働いているおばさんで、架空の人物。
Eleanor Rigby - PAUL McCARTNEY BROAD STREET


歌詞のなかにある No one was saved. 誰も救われない。 この歌自体がペシミスティックだけど、このフレーズも悲観的だ。
このあとジョン・レノンは、別の方向(「愛」)に向かって進んでゆく。

上の曲は、映画の『BROAD STREET』のもの。懐かしい。
録音はあまりよくないので、こっち↓の方がいいかも。
http://www.youtube.com/watch?v=24v4d3eZaK0

次の商船は時代背景があって、太平洋戦争中に沈没した日本商船は2570隻(保有船腹の88%)と言われています。たぶん昭和19年が一番多かったと思う。



Twitter小説のような超短編の場合は、なによりオチが大事で、そのほか文章表現が特に巧いとか、瞬間芸みたいな話法で読者をうならせるとか、そういうのがないとなかなか評価は受けないと思う。

Twitter小説は、良いものからゴミのようなものまで様々。なので、アイコンを見てこの人の作品は読まないようにしてる、ということもしている。読むだけ時間の無駄だから。

あなたもTwitter小説、如何?
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ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)
――流れ行くものを捉える


内面の精緻な記述、メタファーと詩情にあふれる表現、細部にわたる描写。すばらしい。大人の小説。
小説の醍醐味はプロットや物語でなく記述の運動にあるのではないか、という佐藤亜紀(1)の言葉のとおりの作品だ。でもプロットや構成も、緻密にすき間なくやっているのがうかがえる。


ふつう私たちが持っている人物像の評価は、そのときの状況や感情でしばしば揺れ動く。絶対的に固定したものや、疑問を挟む余地のないものは、はっきり言ってつまらないし。そのへんの内面の微妙な揺らぎが、精緻な記述で描かれている。(これが「意識の流れ」というものなのだろうけど。)
例えば、たとえば客人のタンズリーは多くの人から嫌われていて、ラムジー夫人もいけ好かない男と思っているけど、夜会の高揚の中で「突然、チャールズ・タンズリーだって悪い人じゃない、という気がしてきた。あの笑い方が好きだわ。」と思い直したり。またリリーのラムジー夫人への感想は好意的だが、古い価値観を押しつけることがあるので、ときにはうざったいと思うこともある。リリーが気難しいと敬遠していたラムジー氏に対しても、おもわず口に出した言葉「なんて素敵な靴!」で、すっかり打ち解けてしまったりと、人の感情はときに振り子のように揺れる。

この作品は、方丈記の「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。……」(2)の様相を帯びている。したがって、どうしても、記憶、時間、死、永遠、他者などのテーマが登場することになる。そんな中、人々の記憶を絵画として定着しようとしたり、悲しい出来事に人生の興味を失ってしまったり、思い出を胸にミッション(灯台へ行く)を引き継ぐ人たちがいる。

またこの小説では、芸術に関する味わい深い含蓄が、リリーの言葉を通して、いたるところに散りばめらている。その多くは疑問文だ。そもそも芸術(絵画)とは何だろうか、と。こうしてリリーの苦難な探求の旅が続けられていく。
そしてこれが――と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、誰かを「知る」こと、その人のことを「思いやる」こと、ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。もちろん今の場面は現実ではなく、単に想像したものにすぎない。でもわたしにとって、人を理解するというのはこんな個人的な連想によるしかないように思う。彼女はまるでトンネルでも掘るようにして、さらに絵の中へ、過去に中へと踏み込んでいった。(p.334)

丹生谷貴志氏によると、近代芸術のルーツは次のようなものだという。
十九世紀に始まる「近代(モダーン)」は、モード(Mode)の意味「流れ行き」が名詞化された「流れ行きてあること(Modern)」に由来するものだという。(じっさい現代の我々も、流行=モードの波に乗っている/乗せられているわけだし。) それで「流れ行き」と「今」だけが絶対視され、「永遠」と「不動点」が失なわれてしまうことになった。それでその永遠・不動のものを再獲得するのが、芸術(絵画)に与えられた使命だという。(3)
つまり、「時間を止めること」、流れ行く時間それ自体を「凍結」し、「時間的永遠」という矛盾した「永遠」を生み出すこと。「近代絵画」の倒錯した苦行が始まる……。たとえば、モネのいわゆる「印象主義」の試み。すなわち、「時間」を「今、ここ」の瞬間的静止によって永遠の中に凍結すること。 (「絵画の中の時間」)


ところで私は文学研究者でもなければ、ヴァージニア・ウルフを読むのも初めてなので、よく分からないのだけど、ウルフの「意識の流れ」やモダニズム文学というのは、モダーンの「流れ行くこと」に関係があるのかな?
いちおう上記の引用は、『灯台へ』第三章の次の言葉に対応してるみたいだ。
夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ。(p.311)

これを読むと、もしかしてウルフは印象派の絵画を念頭において書いているのではと思ったが、やはりそうだったようだ。この説明がなされているBlogを見つけた。
「真夜中のパウンドケーキ」さん。
http://mikafone.blog82.fc2.com/blog-category-24.html
現代の「意識の流れの小説」は
フロイトの深層心理学の影響として、受け入れられるようになっていますが
わたしは、ウルフが影響を受けたのは、むしろ
印象派絵画だと思います

1910年代のはじめ
ウルフはロンドンで開かれた、後期印象派の美術展を見て
彼女の芸術への決定的啓示を受けたのです。 (「真夜中のパウンドケーキ」)


こうして流れ行くものの瞬間を固定し、不動のものにするということが必要となる。でもこれは経験なので、だれもができるものではない。とくに記憶をよみがえらせようとしたり、時間を凍結しようとする者には、どうしても空虚感や空白感がつきまとう。「捉えようとしても指の間からすり抜けてしまうような何か」をつかまえなければならない。でも言葉は使えない。言葉は「いつも狙った的をはずしてまうから。」
そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段には恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(p.345)

でもリリーは、いつも眉間に皺をよせ苦悶の表情をして絵を描いているわけではない。それは男のやることだ。たとえばラムジー氏やタンズリーのような。
リリーは風景の移り変わるに心を打たれたり、花や人々の思い出に生命感を見たりしてる。そして(リリーの想像したカーマイケルさんの)答えが、次のようなものだ。
たぶんこれがカーマイケルさんの答えなんだろう――「貴方」も「私」もそうして「夫人」も、皆死んで消え去るのです。何も残らないし、すべては変わります。だが言葉は違うし、きっと絵も違うではずでしょう。でも、わたしの絵は屋根裏部屋にかけられるのがせいぜいで、ひょっとすると丸めてソファーの下に突っ込まれてしまうかもしれない、とリリーは思う。いや、たとえそうであっても、そのような絵に関しても氏の言葉はやはり当たっているのだろう。こんななぐり描きでさえ、そこに現実に描かれたものより、それが表そうとしたものゆえに、きっと「永遠に残る」はずだ、と言いかけたのだが、さすがにそう口に出すのはあまりに面映ゆく、ただ黙って自分に言い聞かせようとするにとどめた。(p.347)
ここで「永遠」が登場する。でもエンディングに行き着くまでには、(別にどんでん返しのようなものはなかったけど)、もう少し紆余曲折があるようだ。



なまのウルフの文章ではどういう終わり方をしてるのか気になったので、辞書サイトなどを利用して読んでみた。そこでちょっと気になった箇所が、カーマイケルさんが祝福した以下の文章。
Now he has crowned the occasion, she thought, when his hand slowly fell, as if she had seen him let fall from his great height a wreath of violets and asphodels which, fluttering slowly, lay at lenght upon the earth.

老人はやがてゆっくり片腕を下ろして、この記念すべき時を祝福したのだけど、リリーには、遥かな高みから詩神の落としたスミレやアスフォデルの花輪が、ひらひらと宙を舞い降りて、静かに地上を彩るのが見えたように思えた。(p/405)
ちなみに、みすず書房『燈台へ』では、
今、あの方は、この燈台行きに冠を与えたのだと、リリーは彼の手がゆっくりとおろされた時、そう考えた。彼が高い所にいて、菫と水仙の花環をおとし、その花環が、ゆっくりとひらひらととんで、遂に地上に落ち着く有様を見たように思った。(『燈台へ』伊吹知勢訳)

このスミレとアスフォデルの意味に注目してみた。
ギリシャ神話では、愛と美の女神アフロディーテ/キュテレイアや音楽の女神ミューズは、スミレの花綱を冠として(violet-crowned / crowned with violets)頭に載せている。そしてカーマイケルさんが祝福したのも、crowned((王冠などを)冠する ⇒ 祝福)を使用してる。
一方のアスフォデルというのは墓地に咲いてる花らしく、p.54の脚注にも「ギリシャ神話で死後の楽園に咲く不凋花」というのがあるので、これは死者に向けた献花ではないかと思った。
それで、灯台に行った者たちにはスミレの花環が、そして死者の祝福にはアスフォデルの花環が捧げられたのではないかと思った。それで私の訳では、以下のとおりです。
彼はこの間の出来事を祝福することにした。そしてその腕がゆっくりと下げられるとき、リリーにとってはあたかも、彼が至上の高みから落としたスミレやアスフォデルの花輪が、地上のあちらこちらにひらひらと着地し、灯台に向かった者たちや今は亡き人たちに捧げられているように思えた。

この祝福による生ける者と死者の統合こそ、リリーが追い求め、苦しんだ末ついに手に入れたヴィジョンではなかっただろうか。
そしてリリーは絵筆をとって、空白だった客間の踏み段に、線を一本入れる。その踏み段は、記憶の中では、ラムジー夫人の淡い影が落ちていたところだ。
エンディングは、
 I have had my vision. 「わたしは自分の見方(ルビでヴィジョン)をつかんだわ。」(4)
となっている。
リリーにとっては、画家としての「見方」や「構想」を超え、そして自他の境界も超えた、文字通り「ヴィジョン」が得られた瞬間なのだと思う。そしてその生彩を放つ瞬間の経験によって、初めてリリーは自由になる。




付記
もう5年くらい前?だったかな、みすず書房の『燈台へ』(伊吹知勢訳)を読もうとしたことがあった。でも最初のページであまりにも意味不明な訳文が登場しきて、それで丸善でペーパーバックを買ってチェックしたら、やっぱり誤訳・手抜き訳があったので、もう読むのをあきらめたことがあった。
そして最近、ブログで岩波文庫の『灯台へ』があることを知り、さっそく買ってきた。岩波書店から『灯台へ』が出ていることは知らなかった。これが出版されたのが2004年12月で、その当時は病気で入院していた。

この岩波文庫版『灯台へ』(御輿哲也訳)の翻訳は、読みやすかったです。
ただ、長めのウルフの文章を切らずにそのまま訳してるみたいだけど、私のような脳の短期記憶のバッファ容量が少なめの人には、読むのがちょっとしんどかった。もともと英語は関係詞を使えばいくらでも長い文章を連ねられるけど、日本語の場合はそうではないので。
それで、ときには赤鉛筆で線を引いたり、同じところを二度読んだりしながら、普通のひとの二倍くらいはかかって読み終えることができた。

こんど池澤夏樹個人編集による世界文学全集が出版され、第二集には鴻巣友季子訳の『灯台へ』も登場するらしい。出版されるのはずっとあと(2009年?)だけど。



ということで、けっこう生意気なことを雑然と書き連ねましたが、『灯台へ』は本当にすばらしい作品。もっと早くに読んでおけば良かった。


1: 佐藤亜紀『小説のストラジー』青土社
2: 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。」
3: 丹生谷貴志「青年心理 ― 絵画の中の時間」1991.11
4: みすず書房版『燈台へ』では、「そうよ、私は構想(ルビでヴィジョン)をとらえました。」となっている。


灯台へ (岩波文庫)灯台へ (岩波文庫)
(2004/12)
ヴァージニア ウルフ

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テーマ:読書 - ジャンル:小説・文学

◆瀬尾まいこ 『温室デイズ』
この本は、4ヶ月ほど前、途中で読むのを中断したもので、また再読書。本当に途中でやめるというのは、時間の無駄ですね。読み切ったものでさえよく憶えてないところがあるのに、途中でやめた本は時間が経つとすっかり内容を忘れて、もう一回最初から読まねばならないので。
これ、江原啓之/美輪明宏が言ってる、「自殺をしてもう一度やり直そうとしても、また同じ人生を0歳からやっていかなければならない」というのに似てるかも。 余計なことですが。

さてさて、この小説の作家は、現役の中学教師です。同級生のみちると優子という、それぞれキャラクターの異なる人物の視点で語られます。同じ眼差しでものを見てる場合もあれば、お互いが相対化される視点でものを見てる場合もある。この辺が、この小説の卓れたところだと思う。そして現役教師なので、リアリティのある状況が描かれている。
荒れる学校と教師たちの無責任さのなかで、いじめにあうみちると、それを助けられないで別室登校を選んだ優子、そして小学校時代から知ってる斉藤君と瞬がからんで話は進んでいく。

読んだときはけっこういいと思ったけど、でも作者にとって都合が良すぎる部分もけっこう見られました。
例えばみちるは、学校が発展することを願い、リーダーがクラスを統率するのがいいと思ってる。(そしてそのとおりのことを公言して、いじめが始まった。) でも、リーダーがまとめるって、それは教師の願望じゃないの?と思ったり。もっと言うと、鈍過ぎるキャラクターによっていじめという状況を作る上げたのは、あまりにも作為でないの、とか。

それから、この小説はどうしてもいじめが主要なテーマになってくる。ここで作者=教師としての私見も入ってくるのは、仕方ないのかもしれないけど、それがどうも「私たち教師や学校やに任せて(それ以外の関係ない者は口出しするな)」という、TVのいじめの番組でよく見られる典型的な教師像に思えて仕方ない。
たとえば、いじめられてる子の親にも口出しさせないというもの。ふつう自分の子どもがいじめられていることに気づいたら、とうぜん親は何らかのアクションはとるもの。でもみちるの父親は、彼女がいじめられことに気づいたとき、どうして学校に対して行動を取らなかったのか、フィクションだとしても疑問に思う。もちろん星一徹みたいなガンコ親父が学校に乗り込んできたら、話そのものがぶち壊しになるという懸念もあったのだろうけど。

また心理カウンセラーやフリースクール(この小説では「学びの部屋」)に対しても、別に否定はしていないけど、冷たい。これは優子の視点から語られるものだが、そもそも優子は確信的にクラスに行くことを放棄したので、カウンセリングを受ける必要もなければ、フリースクールに行くこともないのだ。
いちおう母親に言われたから、という設定になってるけど、ちょっとフェアでない気がした。心理カウンセラーとのやりとりは、まるで電脳無能ロボットを相手にしてるみたいに、ちょっとマンガチック。
もっとも優子は、憶えたカウンセングのまねごとを、不良の瞬に対してやっていた。不良でも、いい奴と悪い奴がいて、瞬はすぐキレるけどいい奴。おまけに優子が好きだし、だからカウンセリングが(ちょっとは)効いている。
優子はいいとして、みちるの受けた心の傷はどうするのか。いや、カウンセリングが必要とかそういう話でなくて。
名残惜しい気持ちはまったくなかった。でも、晴れやかな気持ちもない。何より安堵感。そして、やっぱり心のどこかには小さな穴があいたようにむなしさを感じている。(p.201)
これは卒業式当日のみちるの気持ちだ。でも、こんなもので済むだろうか。
精神科医の斎藤学は、いじめられた経験は深刻なトラウマ後遺症を残すという。
不幸にもこんな立場(注:いじめられること)に置かれたときの、正しいふるまい方は、危険から逃れることである。それしかない。逃げずに頑張ろうとすると、屈辱が重なって人間の一番大事な部分が破壊されてしまう。自分自身を愛し、尊ぶという、これからの人生のエネルギーの源泉を枯らしてしまうことになる。(『講座 学校4』― 斎藤学「学級の中のいじめといじめられ」)

一時期本屋で横積みになっていた『教室の悪魔』の著者で心理司の山脇由貴子も、その本の中で、
マスコミの論調に、いじめに「負けないで」というメッセージを聞くことがある。けれども、いじめというのは立ち向かうに値するものでもなく、耐えるべきものでもない。被害者はとにかく逃げればよいのだ。立ち向かう意味などないし、耐える意味もない。
と述べてる。また転校も選択肢のひとつに入るが、「もしいじめが解決されて再度登校できれば、それ自体が治療的な意味を持つが、転校してしまえば、いじめ被害は心に残り続けるのだ。」とも言ってる。
しかし上記のような心理専門のカウンセラーがどうしていじめの問題に深く関わるのか、考えたら不思議な気もするけど、もう教師や教育関係者ではどうにもならないところに来ているのかもしれない。


と、ちょっと穿った見方をしたけれど、いろいろと考えさせる小説だった。
前回の青山七恵が猫文体とするなら、瀬尾まいこの文章は犬っぽい感じがする。
作者はこの続編を書くのだろうか?


温室デイズ 温室デイズ
瀬尾 まいこ (2006/07)
角川書店

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主人公は猫? ― 青山七恵 『ひとり日和』
『ひとり日和』を読む。
全体的に、巧くて、分かり易くて、(中年)男性のツボを押さえてる、という印象。
でもちょっと冗長だし、それにこの程度のストーリなら、もっと短くてもいいのではと思った。その方がもっとリズム感が良くなるし。

話はまず主人公が、東京の親戚のおばさん(吟子さん)の家に居候するところからはじまる。そしてまるで借りてきた猫みたいに、吟子さんや周囲の人物や状況をさめた目で観察する。そう、この主人公は(寓意的に)猫なのだ。そして作者の記述も猫的である。

猫はあまり社会的な動物じゃないので、どうも猫関係……じゃなかった、人間関係がしっくりといかない。世代の違う吟子さんに対しては、けっこう意地悪な目で見てる。恋人や同僚との親密な関係にたいしても違和感がある。
ふつうに発情するが、そのあたりはあっさりとした関係で、記述もさらりとしてる。
でも吟子さんや恋人に対しては、ときには「ナォ~」と甘えることもある。猫のようにツンデレ。猫のように気ままで、そして孤独。「都会のソリテュード」って、猫なんだから当たり前でしょ。それに猫は田舎でも孤独。
猫は猫が嫌い。だから吟子さんの二匹の家猫の描写はあまりない。そして猫だから盗癖がある。

たしかに、吟子さんの家が駅の隣という設定はいいと思う。
つまりこの小説は、吟子さんの家と隣接する駅と主人公の職場の駅という鉄道模型の箱庭を舞台とした、ある猫(的人間)のありふれた物語なのだ。
そこで、フリーターの野良猫がいいのかそれとも正社員の家猫がいいのかを問うたもの……かどうかは、分かりませんけど。


ひとり日和 ひとり日和
青山 七恵 (2007/02/16)
河出書房新社

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<シナリオ→小説>変換は難しい
二月末締め切りの小説に応募しようと思ってたけど、全然できなかった。シナリオで書いてたものを小説に変換しようと思ってたのだけど、A/D変換(アナログ/デジタル)するようなわけにはいかない。

シナリオは、柱(例えば<駅の構内・夜>)を立て、ト書き(例えば「列車が到着する」)を書き、それぞれセリフを書くと、それでできあがり。ト書きはすべて現在形で、比喩や余計な表現も必要ない。
それに対して小説は、比喩表現、文体の綾、過去形と現在形(←本当はこういう分けたはない)、時間表現なども含めて、シナリオよりも文字数が多いので大変だ。(私の場合)
建築でいうと、シナリオは概略設計と模型だけ作ってあとは監督に委ね、小説は全部やって建築物を作らないとならない。あまりいい喩えじゃないけど。

でも、シナリオ(映像表現)は簡単かというと、そういうわけじゃない。
佐藤亜紀は『小説のストラテジー』の中で、「我々が反応してるのは記述の運動であって、プロットでも物語でもないのかもしれない」と言ってる。記述の重要さは、小説も映画も同じらしい。
プロットがどれほど丁寧にその過程をトレースしようと、それで観客が感動するわけではありません。受け手が見てとるのはフィルムに定着された映像と音声であり、プロットはその運動を下支えするだけです。果たしてそこに「苦難の浄化」があったか否かを語ろうと思えば、プロットではなく、映画として実現された「記述」の運動を語らなければなりません。 (『小説のストラテジー』)

小説をもとに作られた映画がしばしばつまらないのも、両者では記述の作法が異なってるせいもあるのかもしれない。映画監督がそのあたりに無頓着なときに。


ということで、期日までに書けない言い訳をしてみました。
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