[孤島]
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内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』 (講談社現代新書)
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の中で、宅間先生(三浦友和)がタヌキをおびき寄せる場面があったけど、前作を見ていない私にとって何のことかさっぱり分からなかった。ネットで調べたら、前作では酔っ払って空き地で寝ていた宅間先生がタヌキに化かされ、夢の中で空襲で亡くなった奥さんと娘さんに会うことができた、ということらしい。それで、夢よもう一度!と、焼き鳥でタヌキを呼び寄せようとしていたのだ。

この本は、1965年(昭和40年)あたりを境にして、日本の社会からキツネにだまされたという話が途絶え始めたのはどうしてか、という疑問から出発する。(もちろん「三丁目の夕日」みたいにタヌキにだまされたり、またムジナやイタチに化かされたりすることもあるけど、それらの代表としてキツネが選ばれたということ。)
聞き取りした結果では、高度成長期の人間の変化、科学の発達による人間の変化、コミュニケーション手段の変化、死生観の変化、自然観の変化、天然林から人工林への変化などがあげられているとされる。
キツネにだまされなくなったことについては、人間と自然環境や動物との関係が、それらの要因によって崩壊してしまった結果なのだという推理をする。でも本書は、単にキツネの消滅の因果関係を明らかにするだけではない。伝統社会が持っていた人間と自然や動物と結びつきの「作法」が壊れたということはどういうことなのか、生命観、歴史観、風土論、さらに記憶と時間の問題なども含めた、広い範囲まで考察がおよぶ。
本当なら、「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」というのはサブタイトルにして、「生命と歴史哲学と風土論と時間論の入門」みたいなタイトルの方が合っているかもしれない。もちろんそんな最悪のキャッチーな書名だと、かえって売れないだろうけど。
この本は、学際という言葉を越えた、哲学や歴史や生命論や民俗学や風土論などの領域を軽快にクロスオーバーしていて、とても刺激になった。 「何とかの壁」だとか「ちょめちょめの品格」だといったどうでもいい本ばかりベストセラーになっているなかで、こういう本を本当に良書というのだろう。

さて、ほんらい日本人がもっていた自然観・生命観について、たとえば次のように述べている。
百姓の暮らしをすればするほど自然の偉大さがわかる。間引きの例えで述べたように、人間は自然そのもののあり方とは違ったことをする。それはときに自己への罪悪感をもたらし、ますます深い自然への尊敬を生みだす。石も土も岩も、木も草も虫も動物たちも、この自然のなかで「おのずから」のままに生きているということ、そのこと自体のなかに穢れなき清浄なものを感じとる。それを清浄なる霊性と表現してもいいし、清浄な仏性(もちろん仏性は清浄なものにきまっているのだが)と述べてもいい。(p.102)

日本の伝統社会では、生命観には独特なものがあるらしい。とくに「山川草木、悉有仏性」という、草や山や動物や石やにも仏性があるというもので、これが民衆の倫理のベースになってるという。
もちろんいつの時代においても、生命は一面では個体性をもっている。だから個人の誕生であり、個人の死である。だが伝統的な精神世界のなかで生きた人々にとっては、それがすべてではなかった。もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった。個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないかと私は思っている。(p.110)

村落共同体では、人間も含めた個々の生命体がひとつの有機体となって機能してると言えるのかもしれない。人間も動物も植物や森や自然も、何らかの結び合った関係がある。死者でさえ、バーチャルな生命体の神(ご先祖)として村を見守るという役割が与えられている。 また八月のお盆には、この世に還ってくる。生きているときも死者になっても、村八分にされない限りは、よりどころはいくつも用意されている。
でも今は、かってのような共同体を作ることはできないだろう。(擬似)共同体の役割を担ってきた企業も、終身雇用と年功序列制度の廃止によって、その機能がなくなりつつある。それに代わる何か、あるいは別の考え方をしないと、どうしても空虚感につきまとわれてしまう。(1)

オーソライズされた制度史や客観的な大文字の歴史、そしてヘーゲルやマルクスなどの進歩史観といった知性でとらえられた歴史に対して、著者は目に見えない身体や生命の記憶に注目する。でも知性とちがって、身体や生命は、言葉=知性では表現されないので、何かに仮託してでしか語ることができないとされる。それはたとえばベルクソンの「直観」であり、鈴木大拙の「霊性」である。 (「一般には『魂』とか『霊』という言葉に仮託されることもある。」p.154) そして「キツネ」も。

それから、目に見えない生命や身体の記憶をもった人間の全体的な存在と、知性でつかみとられた現象としての存在との解離が、今日の私たちの状況を作っているのではないかと述べている。
ヨーロッパ生まれの直線的で発達史的な歴史、つまり知性の歴史は、過去を現在・未来に繰り込むことによって(トリック的に)現在を肯定する。そうして人々は(先進国の社会では)物質的にも豊かになってきたと思っているけど、充足感が得られていないのではないかと疑問を持ち始めた。
ところが、にもかかわらず充足感に乏しい。一体何が乏しいのか。
身体の充足感、生命の充足感、現在の問題意識から切断されているがゆえに「みえなくなった知性」の充足感。
知性を介してしかとらえきれない世界に暮らしているがゆえに、ここからみえなくなった広大な世界のなかにいる自分が充足感のなさを訴える。それが今日の私たちの状況であろう。そして、だからこそ、この充足感のなさを「心の豊かさへ」などと再び知性の領域で語ってみても、何の解決にもならないだろう。(p.157)

結局みえない記憶や歴史は、非知性の領域でおいてしかつかむことができないと断言している。
知性ではとらえきれないものということでは、スピリチュアリティの分野でも同様なことを言ってる。(スピリチュアリティといっても、いろいろあるけど。) 知性(言葉)によって断片され分節されたものでなく、言葉になる以前のありままの状態の対象を境界なく一体化してとらえ、その全体性(ホリスティク)の生のあり方が重要なのだということ。
この本ではスピリチュアリティという言葉はたぶん登場していないけど、スピリチュアリティの本でもあると私的には思ってます。
現代の私たちは、知性よってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語がうまれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じていたのである。(p.161)


著者は田舎に住んでいる在野の哲学者だという。この本を読む前は、単なる人の好い田舎の哲学者?と思っていたけど、それはまったく誤解でした。よくいる観念だけの哲学者、たとえば笑えない土屋賢二やブーたれ中島義道(2)とは全然違う。

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(1) 共同体では人が死ぬと、ご先祖様という神に格上げになり収まりが付くけど、すでに共同体を失った我々は、死んだらどこにいくのか。輪廻転生でまた生まれるか。いずれにしても「自我」を抱えたままでは、死んでも死にきれない。かって伝統的な共同体の人々がそうであったように、「おのずから」の境地。 (このことを「成仏」とよぶ人もいる。) 
(2) 池田清彦[生物学者]の中島義道『醜い日本の私』に対する批判が↓ここ。
「他人の恣意性の権利を侵食しない限り、人は何をするのも自由である。」(欲望問題)

また、『うるさい日本の私―「音漬け社会」との果てしなき戦い』のなかで、どうして街宣車のことを挙げないのかという批判もあった。


      *

キツネは童謡にも登場していた。
先月 NHK-FMの深夜番組で童謡をやっていて、その中で女の子とお爺さんの掛け合いの歌があり、おもしろいと思って聴いていたら、「キツネがでる」とか歌っている。それでネットで番組表を調べたら、「一茶と子供」という童謡だっということが分かった。
どういう歌詞か、ネットで調べたけど分からなかったので、CDをネットで買うことにした。
「復刻 川田正子/川田孝子」という SP盤から録音復刻盤したもので、その中にその童謡がありました。
「一茶と子供」は↓ここで視聴できます。(一茶というのは、あの小林一茶のことです。)
http://www.tsutaya.co.jp/item/music/view_m.zhtml?pdid=20053467
一茶と子供  川田孝子 伊藤久男
加藤省吾作詞/八州秀章作曲

(子ども)
信州信濃の 雪とけて
お山はとろり 春がすみ
さくら花さく 日ぐれ頃
とぼとぼひとり おじいさん
もしもし どちらへ ゆきまする

(一茶)
はいはい わしかな わしならのう
旅から旅の うたよみじゃ
まつりばやしの あの村へ
これからぶらり ゆことてのう

(子ども)
いえいえ こわいで やめなされ

(一茶)
さてさて こわいと いうことを
すこしもわしは 知らなんだ
なんときつねが でなさると
なるほどそれは ぜひ見たい

(子ども)
そしたらお話 きかせてね

(子どもの合唱)
信州信濃は 夕ぐれて
一茶のおじさん どこへゆく
おぼろおぼろな 春の夜や
もみじいろなす 秋の夜に
詠んではつたえた うたの数

ほのぼのとした歌ですねえ。女の子が知らないお爺さんに声を掛けるというのは、今だったらあまり考えられないかもしれない。
「旅から旅の うたよみじゃ」……うらやましい。
この歌がいつ作られたのかは、結局不明。戦前・戦中か戦後まもなくの時期? いずれにしろ 1965年よりもずっと前のころ。

このCDには「叱られて」という歌もあって、その最後のフレーズは次のようなものです。
 夕べさみしい 村はずれ
 コンとキツネが なきゃせぬか

こうしてみると、子どもはけっこうキツネを恐れていたんじゃないかと思う。大人も恐れていたので子ども同様に恐れたのか、それとも大人が子どもを訓育するためにキツネを利用したのかどうか分かりませんけど。

でも、「烏のあかちゃん」の四番目の歌詞では、
 きつねの赤ちゃん なぜ鳴くの
 三日月 おばさんに
 木の葉でかんざし 買っとくれ
 小石で花ぐし 買っとくれと
 コンコン 鳴くのね

というのがあったので、子キツネはあまり悪さはしないのかも。
ところで、キツネはほんとうにコン(コン)と鳴くのでしょうか?
ちなみに、こっちの北キツネは、たぶんそういう鳴き声はしない。というか、なにも鳴かない。



日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)
(2007/11/16)
内山 節

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テーマ:読書 - ジャンル:小説・文学

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