[孤島]
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『きみの友だち』 ほか2本
きみの友だち


■『きみの友だち』(監督:廣木隆一、脚本:斉藤ひろし、原作:重松清)

DVDで見た。
おじさんは少女が好き。私も同様。でも対象となるのは、プラトンのいうイデア(1) としての少女だ。 少女の肉体そのものにフェチるのは、変態で邪道だ。
イデアとしての少女、つまり「少女という存在そのものの本質的な客体性」(2) をこの上なく追求したのが澁澤龍彦だ。少女のもつ特徴として生命力があるが、彼はそれを超えて「生の記憶から出来るだけ遠ざかった」ところまで到達した。イデアの少女は本来観念的にしか語られないが、それを具現化したのが四谷シモンなどの関節人形で、モノとしての受動的な少女像に語らせることで、いま人気の興福寺国宝「阿修羅」像が放つオーラみたいものが現れ出る。

澁澤の少女が静的・標本的なものだとすると、宮崎駿の少女は動的で生命感に満ち溢れている。宮崎駿の場合も、やはりイデアとしての少女だ。
生命力から、表情や美しさやリズム感などが生れる。アニメーションはその語源から「生命のない動かないものに命を与えて動かす」と言われるが、生命とは表情のことでもある。表情は顔だけでなく、全身を使った動きも表情だ。だから宮崎駿アニメ制作のドキュメントをみても、いかに表情を描くかが重要なのかということが理解できる。

作家は(あるいは神は)、非情にも少女に試練を与える。困難に直面し、屈辱を受けることもあり、悪口、また汚名を着せられることもある。その過程で、喜怒哀楽の表情だけではなく、翳のある表情、物憂げな表情、苦悶の表情、孤独な表情など、少女はさまざまな相貌を見せる。そしてその試練を乗り越えることによって、少しずつ大人の女性になる。
イデアとしての少女は死なない。少なくとも少女からおばさんに生まれ変わる(?)ようなことはしない。

さて、この映画に登場する少女たちは、イデアとしては捉えていないようだ。
でも、おじさんたちがリアリズムで少女を描写できるのでしょうか?

(まだこの映画を観てない人は、ここから先は読まない方がいいかもしれません。)


主人公の恵美は不機嫌キャラだ。片足がびっこで松葉杖を使わないとうまく歩けないし、いじめられたこともて、そうなったのだろう。それと、足の骨折は間接的にユカにも関係しているのだからと、友だちの由香に対しても不機嫌。
(そういえば、『つぐみ』や『ジョゼと虎と魚たち』の主人公も不機嫌キャラだった。)

恵美の不機嫌さを、由香の温厚で明るい性格が中和する。恵美はプライドが高いけど、由香は低くて妥協的。お互いのキャラクターが対照的だ。
でも、小説の不機嫌さと映像の不機嫌さは、ちょっと違う。映像であまり不機嫌さを見せつけられると、気が滅入る。(実際は不機嫌でないときもあるのだろうけど、印象として不機嫌さが残ってしまう。)

由香のこだわりアイテム「もこもこ雲」は想い出が一杯詰まったものであり、想像力が生み出したイメージである。恵美も、後にハナもそれを共有する。でも、イマジネーションの雲をビジュアル化したら、本当につまらないものになる。それは、小説の雲と映像の雲の違いでもある。実際、撮られた写真の雲もそうだし、恵美が病床にいるユカに渡した「もこもこ雲」の絵も、まるで子どものお絵かきみたいもので、ちょっと無惨だ。

恵美の不機嫌とは対照的に、吉高由里子演ずるハナって華がある、と、しょうもないダジャレを言ってますが、ハナは中3というより大学生みたいだったし、実際20歳のせいか、存在感があった。どんな表情をしても良いので、もし物語が中3でなくて高3だったら、吉高由里子はヒロインになっていたかもしれない。

それから、男子生徒たちのエピソードは必要なかったのではないかと思う。何かNHKの「中学生日記」みたいだったし、それよりもハナや堀田や西村とのエピソードをもっと増やした方が良かったと思う。それに、小学校時代の意地悪キャラ万里ちゃんとかも登場させて、恵美はいかに屈辱の日を送っていたかを知らしめることも必要だったのではないか。

いくら映画の上(小説の上)での出来事だと言え、少女が死ぬのは観客(読者)にとっては衝撃的なことだ。もともと映画や小説はみな作為的に作られているのだろうけど、そういう設定にしたのを あざといと思うかどうかは、そこに必然性があるかどうかにかかっていると思われる。
さて、由香の死は、どういう影響を与え、人に何をもたらし、そして何を失ったのか。

この映画では、死や死に逝く者をどう考えるかについての考察も、もっとされていたらと思う。とは言っても、これはおもに少女(少年)を対象として作られたものなので、仕方がないか。
要するに『きみの友だち』は、「由香の想い出と『もこもこ雲』は懐かしいね」とか、「死んで天国に行って空で『もこもこ雲』になり、空を見上げるとそこに由香がいる」とか、「死んだ者を忘れないことが大切である」ということに集約されているように見える。とすると、薄幸な由香が死ぬ理由も分かるのだけど、なんだか、ちょっと腑に落ちない気がする。

小説では、最後の恵美の写真展は、同時に恵美とフリーライターの結婚パーティでもあった。そこに参加したのは恵美の祝福のためにやってきた人たちであり、また二人の両親やハナや堀田や西村や語り手のフリーライターなども含めた、死んだ由香の「想い出共同体」の人たちであった。(本当は、ひとりが死んでもうひとりが結婚するそのギャップはなに? とか思うけど。)
いっぽう映画では、結婚パーティなしの写真展だけのもので、由香の想い出は、そこに登場した恵美とフリーライターと由香の両親だけのものだった。そして恵美は空を見上げて終わり。やっぱりエンディングには、ハナや堀田や西村も登場した方が良かったのではないだろうか。

この映画を作るとき、どうして脚本家か監督を女性にしなかったのだろうと思う。


1.個別の事物の背後には、その本質であるイデア (Idea) が実在すると主張する哲学の存在論のひとつ。
イデアとは最高度に抽象的な完全不滅の実であり、感覚的事物はその影であるとする。イデアが存在しているのがイデア界(本質界)で、その陰が投影されているのがわれわれ人間の住む現実界となる。 (ウィキペディアより)
2.澁澤龍彦 『少女コレクション序説』




■『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』(香港映画 1987年公開。監督:チン・シウタン)

BSで見た。『聊斎志異』の中のストーリーを元にして作られたとのこと。この映画を初めて見たときはすごく驚いたし、いま見ても優れていると思う。女優のジョイ・ウォンも色っぽかったし。

男女の恋や愛の障壁になるものはいろいろと挙げられるが、死こそその最たるもの。この世の男性とあの世で幽霊になった女性との恋は、はたして成就できるのか。

NHKのBSではチャイニーズ・ゴースト・ストーリー2と3もやっていたが、こちらは化け物退治のドタバタ活劇。3は途中で見るのをやめた。



■『埋もれ木』(2005年 監督:小栗康平)

『泥の河』など小栗康平の作品は優れているので、この映画は前から見たいと思っていたけど、田舎のビデオ屋にはなかった。やっとBSで見ることができた。でも、どう評価していいのか、困ってしまう。
長回しを多用する監督だけどそのせいがあったのか、それとも小栗康平らしい夜のシーンが多かったのか、それとも深夜番組のせいもあるのか、とにかくちょっと眠かった。テンポがいい『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』とは対極に位置する。

この映画は、お互い脈絡のない数多くのエピソードの切り貼り(コラージュ)によって成り立っているので、ストーリーを追い求めようしとしても頓挫するようだ。
映画の最後で、登場人物たちや動物やオブジェが、埋もれ木やカーニバルのところで集まる夜のシーンがある。まるでF・フェリーニの「8-1/2」みたいだけど、その大団円に来て初めて、各エピソードや場面が伏線として撮られたことが分かる。
でも、逆にわざわざそのシーンに至る過程として各場面が撮られたとしたら、その意図はあまり成功はしていないように見えた。例えば、風船で浮く張りぼての鯨は、少女の物語から始まったものであり、トラックの鯨の壁画であるという風に。でも、張りぼて鯨のシーンは、別にどうということはないものだったし、カーニバルで空に浮く気球の赤い馬のも、とくに美しいとは思えなかった。
それと、埋もれ木の間を子どもたちが駱駝と一緒に行進のシーンがあったけど、子どもたちが森林のなかで行方不明になったエピソードや、建具屋のおやじが小学校で木や森林について講義するシーンなども、伏線として働いているようだ。その建具屋のおやじは、子どもが死んだことがきっかけで廃業してタクシー運転手になり、そしてまた建具屋になって、死んだ子のいたクラスで森林エコな啓蒙活動をやるという、何とも予定調和をやっている。そして建具屋おやじの話が、木・森林つながりで最終章の埋もれ木のシーンに接続するという、その意図もけっこう作為的な感じがした。

T・アンゲロプロスの長回しのカメラワークは、強い想いが込められた光景を撮ったものだけど、この映画のように想いも脈絡もそれほど強くない長回し場面を見せられても、ただ途方に暮れる。
それと、この監督には、F・フェリーニのもつ(いい意味での)いかがわしさみたいものが不足している。

『埋もれ木』オフィシャルサイトの小栗康平監督のメッセージに、次のようなことが書かれていた。
画像は感覚に訴える。言葉と比べればもともと論理性を優先していない。その分だけ、見る人の印象といったところへまぎれて、なにがいいのか悪いのかを、私たちは確かめ合えないでいる。
画像の中心がTVに移り、映画の商業性ばかりが強調されていくと、映像はどうしても分かりやすいものへと流れがちになる。
幼児はまず絵本から表現に触れ、親しむ。やがてそこに言葉が入ってくる。言葉以前に私たちはイメージで世界を見ているといっても過言ではない。
だとすれば、いのちのその最も根本に関るイメージが、人為的に作られた画像というものにとって替わられることについて、私たちはもっと慎重でなければならない。
『埋もれ木』では、見えていることと、見ようとしていることが、ないまぜになっている。結果として、映画にある程度の抽象性が入ることを避けられなくなった。もしかしたらそれが観客にうとまれることがあるかもしれないと思う。でもそれでもなお、一人でも多くの人にこうした作品に触れてほしいと、願うのです。

前半のところは、もう既によく言われていることであり、それはそれで分かるのだけど、個々の文節のつながりがすごく恣意的だ。それと、後半の部分との因果関係も不明瞭。そして何より、そのメッセージで言われることを実際に映画で実現されているかどうかは疑問だし、「言葉以前のイメージ」が表現されるとは言えないと思う。ちょっと頭でっかちの映画に思えた。

ちなみに、小栗康平も少女が好きだ。でも少女たちの存在をイデアと考えるというよりも、イメージを運ぶメッセンジャー(語り部)の役割を与えている。だから少女に試練は与えないし、彼女ら自身も変わりはしない。
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