[孤島]
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映画 『ローズ・イン・タイドランド』


厳しい現実もはねのける、子どもの力強い生命力こそ
私が敬愛する想像力の源だ。
   ―― テリー・ギリアム


けっきょく映画館には行けなくて、やっとDVDで見ることができた。でもDVDだと二度見られるし、それにセリフの採録もできるのがいい。

主人公のジェライザ=ローズが読んでいた『不思議な国のアリス』と同じように、この映画のヒロインは小さな少女であり、物語はナンセンス(nonsense)な登場人物(動物)と出来事に溢れている。そしてアリスが兎の穴に落ちていったように、ローズも通常でないシチュエイションに落ち込んでゆく。
数少ない登場人物は、ほとんどがまともではない。なんせ両親ともジャンキー(ヤク中)なのだ。それから友だちになったディケンズとその姉の黒衣のデルもおかしい。ディケンズはたぶんバスを運転して列車事故を起こして、それで脳に障害をもつことになったらしい。デルはかんしゃく持ちで、剥製を作るのが趣味。ローズの友だち(?)のリスも捕まえて、剥製にしようとする。

"Tideland" プロモーション・サイトのSYNOPSISに次のようなことが書いてあった。
新しい家に来てからジェライザ=ローズが抱えた途方もない孤独を、想像力の中で存在するファンタジーの世界に逃避することで忘れようとしたように、この映画は現実とファンタジーとのはざ間を行きつ戻りつ流転しながら展開してゆく。

子どもは猫に似てる。もし遊び相手がなければ一人遊びをやる。ローズがバービー人形の頭を使ってひとりで遊んだように、猫は仮想の獲物や兄弟を追いかけてひとりで室内を駆け回ることがある。うちの年をくってる猫も、ときどきひとり遊びをやる。
子どもと動物の居場所は、今・現在なのだ。よほどひどい思いをしていないなら、過去のことは忘れる。未来も同様。その時その場所で、オン・ザ・スポットで情報処理をやっているので、あれやこれや過去や将来のことに思い煩うことはない。
で、子どもも猫も、誰か可愛がってくれる人がいれば一番いいのだけど、もしいなくても孤独には耐えられるのだろうか?
幼児や子猫なら、たぶん生きていけない。大人の猫は、食べ物さえ確保できたら孤独に耐えて生きていける、というかもともと孤独に生きる習性なので当然か。人間でも、もっと上の子どもなら、親や誰か可愛がってくれる人がいなくても、なんとかやっていけるかもしれない。
この映画の主人公ローズは、あまり母子密着でなかったようだ。チョコレートを食べること以外にあまり興味を持てない母親とちがって、いつも麻薬でトリップしたり夢のユトランドに行こうとしてる父親には愛着をもっている。
ユトランド(Jutland)のことを、母親がふつうに英語読みで「ジャトランド」と言ったの対して、父親とローズはドイツ語読みで「ユトランド」と言う。これは現実のユトランド半島ということよりも、空想によるイメージのユトランドを言い表したものかもしれない。
結局ユトランドではなく、草原のテキサスに行くことになるのだけど、そこで父親が言ってきた言葉が本物となる。蛍、沼男、グンヒルド王妃……、そして草原は湿地であり沼であり、父親がうわごとのように言っていた「もの悲しい幻の干潟(タイドランド)」に。もちろんローズの想像の中でのことだが、子どもはメタファーやアレゴリーの宝庫なのだ。

またこの映画は、みんな(?)の好きな少女物でもある。
澁澤龍彦は幼年期から思春期への過渡期にある少女の魅力について、『不思議な国のアリス』のアリスに触れながら次のように述べている。
童話の女主人公はすべてそうであるが、アリスもまた、性に関する意識と無意識の中間の領域をさまよっている。アリスの幼年時代は終わろうとしてる。おそらく、こうした危機感があればこそ、それだけアリスの少女らしい無邪気さは強調されるのだろう。いや、単にこれを無邪気さということでは足りない。時にアリスは小さな貴婦人のように、妙に大人っぽい分別を示したり、おしゃまところもを見せたりするが、それがまた彼女の魅力の大きな部分を占めているのだ。 ――(『少女コレクション序説』「アリスあるいはナルシシストの心のレンズ」)
幼年期から思春期(前期)への移行は個々人や環境条件にもよるが、女の子は10歳くらいからといわれている。夢見る時期から、もっと現実的な見方をする年代への移行。この映画の原作("Tideland" ミッチ・カリン )によるとヒロインのローズは11歳らしいので、移行したあたりに位置することになる。そして無邪気さと大人っぽさを合わせもっていて、澁澤が言うようにやはりそこが魅力になっている。
ただ、澁澤龍彦は生身の少女でなく、イメージとしての「少女」に注目したのであって、「少女という存在そのものの本質的な客体性」を見ていたのだ。澁澤の少女がものを言わない非生命的美少女なら、テリー・ギリアムの少女はいきいきとした生命力のある少女。静と動で対照的。そういえばローズがよく笑うシーンがあったように、表情が生き生きとしてた。テリー・ギリアムはロリコンでも何でもない。
さらに澁澤は続ける。
ある面から見れば、作者たるドジソン自身の投影にほかならないのだから、アリスが頭のよい、誇り高い、知性と独立心のある少女であるのは当然であろう。 ――(同上)
ドジソンというのはもちろんペンネームとして使ったルイス・キャロルのことで、創作による少女が作家の投影だとするなら、ローズもテリー・ギリアム(や原作のミッチ・カリン)の分身ということになるのかも。


この映画で大人の女性は、ラストシーンでちょっこと出てくる列車の乗客以外は、粗雑で知性に欠けるキャラクターだ。それに対して男性は、ローズの大好きなパパと友だちになったディケンズ。
実はこの映画(原作)は、『ミツバチのささやき』(監督:ビクトル・エリセ)にも構造がちょっと似てる。『ミツバチ』の主人公アナの少女から大人への過程が描かれてるところ、そして父親と精霊(=フランケンシュタイン=逃亡兵)の関係が。
監督(ビクトル・エリセ)自身も機会あるごとに述べているし、また周囲からもそう解釈されている通り、『ミツバチ』は少女が大人の女へ向かう過程での通過儀礼の物語だと見て間違いなく、……。 ――(倉林 靖『意味とイメージ』)
『ミツバチ』のアナには姉のイザベルがいて、『タイドランド』のジェライザ=ローズは、年齢的にはイザベルに近い。実際、猫に噛まれ出血した指をイザベルがルージュのように唇に塗る場面があったが、それと同じようなことをローズがやっていた。イザベルはもう大人の入り口に立っている、ということを象徴したシーンだった。それにたいして、アナはまだ子どものままでいたいと思っているが、はからずも「他者」を発見してしまう。それはフランケンシュタインであり精霊であり逃亡兵である。そしてジェライザ=ローズにとっては、言葉と手足に障害を持ち、ちょっと頭のイカれたディケンズだ。
どうして少女はモンスターや怪物が好きなのか、倉林靖は「美女と野獣」とそのユング派の解釈を通して紐とく。
ここ(「美女と野獣」)で象徴されているものは、少なくとも二つの要素に分けて考えることができる。ひとつには、女性は、知識として理解することのできる認識よりももっと深いところで、男性の野生的な、根源的なエロスを直感的に認識しなければならない。ふたつめには、そのために女性は、精神的な権威としての父親に向けられた近親相姦的なエロスの方向を他方に転換させなければならない。これらのことは、女性にとっては、段階的な発見の過程として獲得されてゆくことになる。 ――(同上)
もちろんこれはフロイトのオイディプス(エディプス)・コンプレックス(の女性版)から取り入れられたものだけど、実も蓋もないフロイトよりユング派の方がすっきりする気がする。
重要なことは、大人の女になってしまえば、獣的なものの中に美しい心を見るという発見は、内在化され、忘れられてしまう、ということ、少女が、たぶん少女だけが、怪物の中に人間らしい美しい心があることを発見することができる、ということなのだ。 ――(同上)
アナは精霊(逃亡兵)が消えたことにたいして、父親に反抗的な態度をとる。そしてローズの父親は、トリップしたまま戻ってこない。
パパは夢の中で 遠い地にいるのね 「100年の海」より遠く ユトランドの彼方 深い深い所 夢が生まれる地に
私も夢で そこへ行こう 目をかたく閉じ 必死で頑張れば パパの夢の中で 目を覚ませるかも


前回の『ブラザーズ・グリム』よりも面白かった。

(なんか尻切れトンボみたいですが、これでおしまいです。)


ローズ・イン・タイドランド ローズ・イン・タイドランド
テリー・ギリアム (2007/01/26)
東北新社

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テーマ:DVDで見た映画 - ジャンル:映画

コメント
この記事へのコメント
この本はかなり前に読んだのですが
かなり強烈な混沌としたイメージが強く印象に残っています
これほど少女の心象風景が多い作品は映画化されると聞いて どうかなと心配でした

監督がテリーギりアムなので尚更心配で反面、面白いかなとは思ったのですがまだ見ておりません

なにせ「ブラザーズグリム」は詰まらなくて寝てしまいました(笑)

是非原作読んでください

あと 今 近代美術館で「野田弘志展」やっています ついでにこちらに来る機会に見たほうがいいです 結構好きな画家です
鴨居令、松本俊介 といった日本の具象作家好きですよ
2007/06/16(土) 11:36:59 | URL | 小太郎 #-[ 編集]
ミッチ・カリン『タイドランド』…、何でも読んでるのですね。 私は本は購入したけど、まだ少ししか読んでません。
ところで、大人の男性の一番遠いところにある少女を一人称で書くということは、ほんとに可能なのかな、と思ったりします。 D・アーモンドの『ヘブンアイズ』も、主人公は女の子で、やっぱり一人称の記述でしたけど。 (これもまだ未読です。まあ、づべこべ言わんと はよ読め! ですけど。)
子ども(少女)には言語化できない何かがあって……などの煩いことはいわないとしても、(D・アーモンドなど)児童文学者以外の男性作家が書いた少女一人称ものは、最初のところでちょっと引きます。

あ、でも、漱石の『吾輩は猫である』は一人称(一猫称)なので、少女よりもっと遠くにある猫を一人称で漱石は書いてるので、べつに問題ではない・・・か。
でも、猫と少女は、どちらが距離が遠いのでしょう。

たしかに「ブラザーズグリム」は、今まで見てきたテリー・ギリアムの作品としては、一番つまらなかったでした。
童話をそのまま現代にもってきても面白くないので、グリム兄弟のメタ物語と童話の数で勝負!と思ってたけど、結局はずした、ということでしょうか。


松本俊介は大好きな画家です。野田弘志は知らなかったです。
野田弘志展、7月14日までらしいので、ダリ展もやってるし、もうそろそろ行かねば。
2007/06/16(土) 16:04:51 | URL | Spirit of Beehive #-[ 編集]
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2010/09/08(水) 15:27:13 | | #[ 編集]
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