[孤島]
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ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)
――流れ行くものを捉える


内面の精緻な記述、メタファーと詩情にあふれる表現、細部にわたる描写。すばらしい。大人の小説。
小説の醍醐味はプロットや物語でなく記述の運動にあるのではないか、という佐藤亜紀(1)の言葉のとおりの作品だ。でもプロットや構成も、緻密にすき間なくやっているのがうかがえる。


ふつう私たちが持っている人物像の評価は、そのときの状況や感情でしばしば揺れ動く。絶対的に固定したものや、疑問を挟む余地のないものは、はっきり言ってつまらないし。そのへんの内面の微妙な揺らぎが、精緻な記述で描かれている。(これが「意識の流れ」というものなのだろうけど。)
例えば、たとえば客人のタンズリーは多くの人から嫌われていて、ラムジー夫人もいけ好かない男と思っているけど、夜会の高揚の中で「突然、チャールズ・タンズリーだって悪い人じゃない、という気がしてきた。あの笑い方が好きだわ。」と思い直したり。またリリーのラムジー夫人への感想は好意的だが、古い価値観を押しつけることがあるので、ときにはうざったいと思うこともある。リリーが気難しいと敬遠していたラムジー氏に対しても、おもわず口に出した言葉「なんて素敵な靴!」で、すっかり打ち解けてしまったりと、人の感情はときに振り子のように揺れる。

この作品は、方丈記の「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。……」(2)の様相を帯びている。したがって、どうしても、記憶、時間、死、永遠、他者などのテーマが登場することになる。そんな中、人々の記憶を絵画として定着しようとしたり、悲しい出来事に人生の興味を失ってしまったり、思い出を胸にミッション(灯台へ行く)を引き継ぐ人たちがいる。

またこの小説では、芸術に関する味わい深い含蓄が、リリーの言葉を通して、いたるところに散りばめらている。その多くは疑問文だ。そもそも芸術(絵画)とは何だろうか、と。こうしてリリーの苦難な探求の旅が続けられていく。
そしてこれが――と、絵筆に緑の絵具をつけながらリリーは思う、こんなふうにいろんな場面を思い描くことこそが、誰かを「知る」こと、その人のことを「思いやる」こと、ひいては「好きになる」ことでさえあるはずだ。もちろん今の場面は現実ではなく、単に想像したものにすぎない。でもわたしにとって、人を理解するというのはこんな個人的な連想によるしかないように思う。彼女はまるでトンネルでも掘るようにして、さらに絵の中へ、過去に中へと踏み込んでいった。(p.334)

丹生谷貴志氏によると、近代芸術のルーツは次のようなものだという。
十九世紀に始まる「近代(モダーン)」は、モード(Mode)の意味「流れ行き」が名詞化された「流れ行きてあること(Modern)」に由来するものだという。(じっさい現代の我々も、流行=モードの波に乗っている/乗せられているわけだし。) それで「流れ行き」と「今」だけが絶対視され、「永遠」と「不動点」が失なわれてしまうことになった。それでその永遠・不動のものを再獲得するのが、芸術(絵画)に与えられた使命だという。(3)
つまり、「時間を止めること」、流れ行く時間それ自体を「凍結」し、「時間的永遠」という矛盾した「永遠」を生み出すこと。「近代絵画」の倒錯した苦行が始まる……。たとえば、モネのいわゆる「印象主義」の試み。すなわち、「時間」を「今、ここ」の瞬間的静止によって永遠の中に凍結すること。 (「絵画の中の時間」)


ところで私は文学研究者でもなければ、ヴァージニア・ウルフを読むのも初めてなので、よく分からないのだけど、ウルフの「意識の流れ」やモダニズム文学というのは、モダーンの「流れ行くこと」に関係があるのかな?
いちおう上記の引用は、『灯台へ』第三章の次の言葉に対応してるみたいだ。
夫人は何でもない瞬間から、いつまでも心に残るものを作り上げた(絵画という別の領域でリリーがやろうとしていたように)――これはやはり一つの啓示なのだと思う。混沌の只中に確かな形が生み出され、絶え間なく過ぎゆき流れゆくものさえ(彼女は雲が流れ、木の葉が震えるのを見ていた)、しっかりとした動かぬものに変わる。人生がここに立ち止まりますように――そう夫人は念じたのだ。(p.311)

これを読むと、もしかしてウルフは印象派の絵画を念頭において書いているのではと思ったが、やはりそうだったようだ。この説明がなされているBlogを見つけた。
「真夜中のパウンドケーキ」さん。
http://mikafone.blog82.fc2.com/blog-category-24.html
現代の「意識の流れの小説」は
フロイトの深層心理学の影響として、受け入れられるようになっていますが
わたしは、ウルフが影響を受けたのは、むしろ
印象派絵画だと思います

1910年代のはじめ
ウルフはロンドンで開かれた、後期印象派の美術展を見て
彼女の芸術への決定的啓示を受けたのです。 (「真夜中のパウンドケーキ」)


こうして流れ行くものの瞬間を固定し、不動のものにするということが必要となる。でもこれは経験なので、だれもができるものではない。とくに記憶をよみがえらせようとしたり、時間を凍結しようとする者には、どうしても空虚感や空白感がつきまとう。「捉えようとしても指の間からすり抜けてしまうような何か」をつかまえなければならない。でも言葉は使えない。言葉は「いつも狙った的をはずしてまうから。」
そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段には恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(p.345)

でもリリーは、いつも眉間に皺をよせ苦悶の表情をして絵を描いているわけではない。それは男のやることだ。たとえばラムジー氏やタンズリーのような。
リリーは風景の移り変わるに心を打たれたり、花や人々の思い出に生命感を見たりしてる。そして(リリーの想像したカーマイケルさんの)答えが、次のようなものだ。
たぶんこれがカーマイケルさんの答えなんだろう――「貴方」も「私」もそうして「夫人」も、皆死んで消え去るのです。何も残らないし、すべては変わります。だが言葉は違うし、きっと絵も違うではずでしょう。でも、わたしの絵は屋根裏部屋にかけられるのがせいぜいで、ひょっとすると丸めてソファーの下に突っ込まれてしまうかもしれない、とリリーは思う。いや、たとえそうであっても、そのような絵に関しても氏の言葉はやはり当たっているのだろう。こんななぐり描きでさえ、そこに現実に描かれたものより、それが表そうとしたものゆえに、きっと「永遠に残る」はずだ、と言いかけたのだが、さすがにそう口に出すのはあまりに面映ゆく、ただ黙って自分に言い聞かせようとするにとどめた。(p.347)
ここで「永遠」が登場する。でもエンディングに行き着くまでには、(別にどんでん返しのようなものはなかったけど)、もう少し紆余曲折があるようだ。



なまのウルフの文章ではどういう終わり方をしてるのか気になったので、辞書サイトなどを利用して読んでみた。そこでちょっと気になった箇所が、カーマイケルさんが祝福した以下の文章。
Now he has crowned the occasion, she thought, when his hand slowly fell, as if she had seen him let fall from his great height a wreath of violets and asphodels which, fluttering slowly, lay at lenght upon the earth.

老人はやがてゆっくり片腕を下ろして、この記念すべき時を祝福したのだけど、リリーには、遥かな高みから詩神の落としたスミレやアスフォデルの花輪が、ひらひらと宙を舞い降りて、静かに地上を彩るのが見えたように思えた。(p/405)
ちなみに、みすず書房『燈台へ』では、
今、あの方は、この燈台行きに冠を与えたのだと、リリーは彼の手がゆっくりとおろされた時、そう考えた。彼が高い所にいて、菫と水仙の花環をおとし、その花環が、ゆっくりとひらひらととんで、遂に地上に落ち着く有様を見たように思った。(『燈台へ』伊吹知勢訳)

このスミレとアスフォデルの意味に注目してみた。
ギリシャ神話では、愛と美の女神アフロディーテ/キュテレイアや音楽の女神ミューズは、スミレの花綱を冠として(violet-crowned / crowned with violets)頭に載せている。そしてカーマイケルさんが祝福したのも、crowned((王冠などを)冠する ⇒ 祝福)を使用してる。
一方のアスフォデルというのは墓地に咲いてる花らしく、p.54の脚注にも「ギリシャ神話で死後の楽園に咲く不凋花」というのがあるので、これは死者に向けた献花ではないかと思った。
それで、灯台に行った者たちにはスミレの花環が、そして死者の祝福にはアスフォデルの花環が捧げられたのではないかと思った。それで私の訳では、以下のとおりです。
彼はこの間の出来事を祝福することにした。そしてその腕がゆっくりと下げられるとき、リリーにとってはあたかも、彼が至上の高みから落としたスミレやアスフォデルの花輪が、地上のあちらこちらにひらひらと着地し、灯台に向かった者たちや今は亡き人たちに捧げられているように思えた。

この祝福による生ける者と死者の統合こそ、リリーが追い求め、苦しんだ末ついに手に入れたヴィジョンではなかっただろうか。
そしてリリーは絵筆をとって、空白だった客間の踏み段に、線を一本入れる。その踏み段は、記憶の中では、ラムジー夫人の淡い影が落ちていたところだ。
エンディングは、
 I have had my vision. 「わたしは自分の見方(ルビでヴィジョン)をつかんだわ。」(4)
となっている。
リリーにとっては、画家としての「見方」や「構想」を超え、そして自他の境界も超えた、文字通り「ヴィジョン」が得られた瞬間なのだと思う。そしてその生彩を放つ瞬間の経験によって、初めてリリーは自由になる。




付記
もう5年くらい前?だったかな、みすず書房の『燈台へ』(伊吹知勢訳)を読もうとしたことがあった。でも最初のページであまりにも意味不明な訳文が登場しきて、それで丸善でペーパーバックを買ってチェックしたら、やっぱり誤訳・手抜き訳があったので、もう読むのをあきらめたことがあった。
そして最近、ブログで岩波文庫の『灯台へ』があることを知り、さっそく買ってきた。岩波書店から『灯台へ』が出ていることは知らなかった。これが出版されたのが2004年12月で、その当時は病気で入院していた。

この岩波文庫版『灯台へ』(御輿哲也訳)の翻訳は、読みやすかったです。
ただ、長めのウルフの文章を切らずにそのまま訳してるみたいだけど、私のような脳の短期記憶のバッファ容量が少なめの人には、読むのがちょっとしんどかった。もともと英語は関係詞を使えばいくらでも長い文章を連ねられるけど、日本語の場合はそうではないので。
それで、ときには赤鉛筆で線を引いたり、同じところを二度読んだりしながら、普通のひとの二倍くらいはかかって読み終えることができた。

こんど池澤夏樹個人編集による世界文学全集が出版され、第二集には鴻巣友季子訳の『灯台へ』も登場するらしい。出版されるのはずっとあと(2009年?)だけど。



ということで、けっこう生意気なことを雑然と書き連ねましたが、『灯台へ』は本当にすばらしい作品。もっと早くに読んでおけば良かった。


1: 佐藤亜紀『小説のストラジー』青土社
2: 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止とゞまる事なし。世の中にある人と住家すみかと、またかくの如し。」
3: 丹生谷貴志「青年心理 ― 絵画の中の時間」1991.11
4: みすず書房版『燈台へ』では、「そうよ、私は構想(ルビでヴィジョン)をとらえました。」となっている。


灯台へ (岩波文庫)灯台へ (岩波文庫)
(2004/12)
ヴァージニア ウルフ

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テーマ:読書 - ジャンル:小説・文学

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