[孤島]
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1/26の「オーラの泉」は???
「オーラの泉」は、話のパターンが読めてきたのと、出演するゲストに興味を持てないのが多くて、最近は見たり見なかったりしていた。それなりに面白いのだけど、最初のころの興味津々さはだんだん消えてきた。
で、昨日(1/26) の「オーラの泉」のゲストは義家弘介。あまり好きじゃない人物だけど、見てしまった。
暗い目をしてる、うさんくさい野心家。コンプレックスを抱えた、おどおどした目をしていて、こいつ何か隠してるなっていう印象を持ってしまう。テレビやラジオや選挙演説などで声高に何か訴えているけど、言葉に真実味がない。
いや、政治家になったから言ってるのでなく、前からそう思っていた。
夜回り先生(水谷修氏)とはぜんぜん違う。

江原啓之や美輪明宏も、彼の教育論の妥当性にたいする評価をすることなく、持ち上げていいのかな。いじめに関しても、ポシャッた教育審議会で彼はじっさい出来ないことをぶち上げていたけど。
「(国の)教育や医療などさまざまな審議会の答申で、現実にできないようなことをずらっと並べているのが目につくけれど、全く無意味ですね。何ができて、何ができないのかすら明確でない。」(鷲田清一:新春対談 鷲田清一X内田樹 道新1/4)
江原や美輪は、義家のことをピュアだって言ってたけど、それじゃ あまりナイーブすぎる。たしかに、小者さの割には野心が大きいので、そのへんがピュアとは言えなくもないけど。



それから、江原啓之のよく言ってる「すべては必然です」の言葉のカラクリについて、大澤真幸氏が「本」2007.11(講談社)で「時間」について記述してることが参考になる。
たとえば 9・11のテロは、ビルに飛行機で突入するなんていうことは、当時の知見ではとても考えられなかった。でも実際起きてみると、最初からそういうことは可能だったとされてしまうという。ベルクソンの引用して、「人はまちがいなく、過去に可能なものを挿入することができる。あるいは、より正確に言えば、どの瞬間であれ、可能なものは過去に割り込んでくる。」という。
つまり蓋然性・偶然性と思われた事が、いったん起きてみると、いつの間にか充分な可能性・必然性として、後付で過去に挿入されるということ。
認識者に対してある出来事が「何ものか」として現前(現在)しているとき、その出来事は、同時に、その「何ものか」としてすでに可能だったこととして、すでに現実的に「何ものか」だったこととして、つまり自分自身の既定性・既在性を潜在的に伴いつつ現前するのだ。 「(現在において)何ものか」として同定する認識は、必然的に、その同じものが「すでに何ものかであった」という遡及的な措定を伴うのである。


ほんらいスピリチュアリティというのは、運命だとか必然だとかいうのではなく、「個を超えたものとつながるという経験があり、その体験は無媒介の直接的なものであるという点については共通している。スピリチュアリティの体験に直接性と、全体性の回復という二つの特徴を抽出することが可能である。」(1)ということ。つながりが途絶し断片されたものでなく、言葉になる以前の直接的な感覚を取り戻し、ホリスティク(全体性)なあり方を追い求めるのが、スピリチュアリティの目的のひとつであるはずだ。


(1)『科学とスピリチュアリティの時代』森岡正芳「「生の瞬間」という経験」
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